第6話 いつでもあなたは。♯2
夏休みまであと二週間。七月もまだ上旬だというのに、この暑さたるや地獄をも思わせた。狭い文芸部部室は、エアコンの恩恵なしには本を読むこともままならなかった。
部室に所狭しと並べられた文庫本。入り口から向かって左側の棚の最上段を、背伸びをして覗く。棚が高すぎるのだ。顧問の先生が自身の身長に合わせて設置したものらしく、生徒からしてみれば不自由極まりない。
目当ての一冊を手にすると、パイプ椅子に座って読書開始。ちなみに、僕が入部して、この本はようやく六冊目。小難しくて、かつ分厚い本だと、一冊読むのに二週間かかることもあった。分からない言葉ばかりで、辞書を引きながらでないと理解が追い付かなかったからだ。
「ねえ、倉橋」
二年生の
「いい加減さ、一年生誰か勧誘して来てよ。今なら運動部からのドロップアウト組とか結構いるし。今のままだと文化祭の部誌を書く人が足りない」
「いやぁ、なかなか」
「倉橋だって全然本読んだことないのに入ってくれたんだから、誰か興味持ってくれる子もいるって。それに、ウチら二年除いたら男子は倉橋だけだしさ、居辛くない?」
「それは、まあ」
「仲のいい男子誘ってみなよ。とりあえずお試しでもいいし。明日からウチら修学旅行でいないから、一年生も来やすいだろうからさ」
「はあ。じゃあ、声掛けてみます」
「うん、よろしく。じゃ、今日は準備しなきゃだから、もう帰るわ」
「はいっす。お疲れ様です」野球部時代の名残か、僕は軽く挨拶をする。
「おつかれー。あ、先輩も、お先失礼しますね」
「ええ。修学旅行楽しんで来てくださいね」
「はーい!」
スカートを翻して、葛西先輩は部室から出て行った。
内心、僕はガッツポーズをした。声には出さない。表情には多分出ていた。
葛西先輩が帰ったことで、今日この部室には、松岡先輩と僕の二人きりになったのだ。
大好きな人と二人きり。こんな幸せ、なかなか訪れるものじゃない。
葛西先輩にはああ言ったけど、僕は、誰かをこの部に誘う気は全くなかった。特に、男子なんて狼みたいな連中を誰が誘うものか。
現状、文芸部は不人気な部活だ。
三年生は松岡先輩ともう一人。二年生は四人。一年生は、僕と、あと女子生徒が一人だけ。葛西先輩は僕に「勧誘をしてこい」と迫ってくるけれど、そんなことをしては、たまにしか訪れない二人きりの部室が、永劫訪れなくなってしまう危険性がある。それだけは阻止したい。
「倉橋くん」
本を開かずにいたからか、松岡先輩に声を掛けられた。
「はい」
「『
この部では、読み終えた本の感想を部員間で共有することがある。昨日まで読んでいた『竜巻物語』は松岡先輩からのおすすめだったので、先輩も感想が気になっているのかもしれない。
「僕でも読みやすくて、とても面白かったです。なんていうか、荒々しい主人公と物静かなヒロインのやり取りのテンポが良くて、軽妙というか、会話が、その、好きでした」
先輩の前で、「好き」という単語を口にするのを、少しだけ躊躇ってしまった。
「そうですよね!
「分かります。僕も、その、いいなあって」意識してしまったのか、好き、とは言えなかった。
「ふふ。良かったです。楽しんでくれて」
先輩は、図書室で出会ったあの日と同じような笑顔を僕に見せてくれた。
あれから二ヶ月。この笑顔を目にするたび、僕は先輩のことをより好きになる。
「でも、僕、読むの遅いんで、『竜巻物語』もそんなに難しくないのに、結局五日くらいかかっちゃって」
「いいんです。自分に合ったペースで読むのが一番なんですから。わたしだって遅い方で、今読んでいるこれも、もう三日目です。明日までは掛かっちゃいそうで、先が気になっちゃって少しもどかしいんですけどね」
はにかみながら、先輩は手に持っている本を僕に見せる。可愛らしい。
密かに僕は、今手にした本を読み終えたら次はあれを読もう、と考えていた。今まで読んだ本も全て、先輩が読んでいたものか、先輩にお勧めされたものばかりなのだ。
ちなみに手元の本も、少し前まで先輩が読んでいた本。
「どんな本なんですか、それ」先輩の手元を指差しながら訊ねてみた。
「これはですね。
「なるほど」
「ミステリーを読むときに限っては、読書スピードが早い人を羨ましく思ってしまいますね。あー、早くあの謎がどうなってしまうのか知りたいです」
先輩が手足を小さくバタつかせた。そんな可愛い姿を見せられちゃ、僕は幸せを感じずにはいられない。
はっと気付いて恥ずかしそうに躰を縮こまらせたのもまた、僕には魅力的に映る。
先輩は頬を僅かに赤らめながら、咳払いで仕切り直した。
「でも、倉橋くんが文芸部に入ってくれて本当に良かったです」
「え」思わずドキッとした。
「倉橋くんが入部してくれなければ、今この瞬間、こうして本についてお話しすることは出来ませんでした。一人で本を読むだけならば家でも出来ますが、わたしがこうして文芸部を選んで入部したのもこうして共有出来るからこそです。堅苦しくなく、好きな本について、語り合うとまではいかずとも、好きなものを好きと言える。誰かと過ごす時間は得意ではありませんが、大好きなのです。ですから、倉橋くんがいてくれて、わたしは嬉しいです」
ああ。こういうところだ。
先輩は、いつでもこうして僕を弄ぶ。きっと無自覚なんだろうけど、その無責任な無自覚に、面白いように踊らされるのが僕だ。
「僕も……嬉しいです」
「はい。そう思ってもらえて、わたしも嬉しいです」
ただ先輩は、
「あとは、小説を書いて来てくださると、わたしはもっと嬉しく思います」と付け加えた。
「いやあ、さすがにそれは……」僕は毎回こういう反応しか出来ない。
文芸部が毎年文化祭で発行する部誌には、書評や、部員による小説が掲載されるらしい。
全員参加は絶対。僕は書評で、と言っているのだが、下手でもいいから小説を書けとせっつかれている。こんなズブの素人にそんなことをさせようとする神経は分からないけど、正直、松岡先輩に懇願される日々は悪くないな、とも思っていた。もう少し解答を先延ばしにして、この幸せを味わいたい気分だ。
「じゃあ、先輩は書かれるんですよね」
「いえ。わたしは読む専門です。書評ですらおこがましいかな、と思っているほどですから」
「ずるいですよ」
「いいのです。わたしは先輩なので、踏ん反り返って高みの見物と行きます」
「ははは。なんですかそれ」
「ふふ。ちょっとだけ先輩面をしてみました」
先が気になるだろうに、先輩は本を開かず、僕と話をしてくれる。この時間が愛おしい。じんわりと汗をかく季節に、心は程良く温まる。
文芸部に入って、少しずつだが本が好きになっていった僕だけど、でもやっぱり、先輩の笑顔の魅力には敵わない。
きっとこれから先、どんなに素敵な物語や文章や表現やキャラクターに出会っても、松岡先輩と過ごす時間に勝るものは現れないのだろう。
この二ヶ月、毎日のように思い知るのだ。自分の中で燃える、恋の熱さを。
そんな想いを胸の中に止めておくのは、どうしたって嫌だった。
だって、僕が文芸部に入ったのは、あの本が、『きみへ綴る』の主人公が、自分の想いに正直だったからだ。
散々悩んで、今日この日、僕は一つ、揺るがない想いを確認する。
好きという想いに、もっと正直に、真摯に向き合おう。
その先にはもう、答えなんて一つだ。
告白しよう。そうだ。あの主人公のように。
松岡先輩に、想いを伝えよう。
この瞬間に決めた。
手にあった本を最上段の棚に戻して、惜しむように部室を後にし、僕は図書室へ向かった。もちろん、本を借りる為に。
手にしたのは、蓮野東次郎、『きみへ綴る』――出会ったあの日と同じ本だ。
この本をお勧めしていた松岡先輩に、その時の感謝もこめて、僕はこの方法で想いを告げることにした。
きみへ綴る。僕からあなたへ。
想いを込めた、ラブレターを。
○
朝になって、僕は部室に向かった。いつもより三十分も早い登校だ。職員室で鍵を貰った時には、「何か悪いことでも企んでるんじゃないだろうな」と生活指導の先生にあらぬ疑いを掛けられたが、あらぬ疑いというのは『悪いこと』という部分だけであって、企みがあることは確かなので、別段否定はしなかった。
自室で寝ずに考えた言葉達。恥ずかしさに耐えながら買った水色のレターセットに、一文字一文字を丁寧に、それはもう、漢字テストなんてものよりは数倍丁寧に書いた。
下書きは十枚。まさか手紙を書くのがここまで体力のいることだとは思わなかった。今でも少し手首がだるい。手紙を押さえていた左手も痛い。心臓も痛い。
椅子に座って、誰もいない部室を、僕は眺めるように見た。
蒸し蒸しした室内。並べられた本たち。陽射しに照らされ光のように舞う埃。部誌のページ目標が書かれたA4コピー紙と、先輩の字。先輩が読んでいた本。先輩が座っていた椅子。
全部。全部。全部。
一緒に過ごしたほんの少しの時間と、場所と、物。先輩との思い出、全てが好きだ。心臓のドキドキがずっと止まらない。大好きだと叫びたくてウズウズしてしまう。
ここでも、震えた手で何度も何度も手紙を読み返した。誤字なんて情けないミスをしていないか、その確認は怠らない。
そして、僕は、『きみへ綴る』に、ラブレターを挟んだ。
たった一枚の手紙。たった一枚に詰め込んだ恋心。
予鈴が鳴った。あれだけ早く登校したのにもうそんな時間か。心臓の鼓動の速さは時間の感覚まで乱すらしいということを、僕は知った。
慌てて、一番上の棚の、背表紙の色が似ている本、芦田ワタル作品と、
放課後までは、いや、返事を貰えるその日までは、僕はこの激しい心音と共に過ごさなければならないのだろう。なんだか、生きている心地がしない。
好きになるって、こんなにも幸せで、こんなにも苦しいものなのか。
小説に書いてあった言葉。
『恋煩い』
僕は初めて、胸の痛みというものを知ったのだ。
――そして、事件は、放課後に起こった。
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