第5話 淡白さはどこから生まれるか
編集の都合により4話を飛ばして先に5話を上梓する。
第1話を「能面のような顔」と失礼なタイトルに取ってしまった。取ってしまったからにはきちんと決着をつけたい。あの顔は間違いなくウメハラの強さだ。なぜあのような顔が出来るか。その答えの1つを前回、他人からの評価に徹底して無頓着だからとおいた。
後ろに見ているギャラリーに「これ食らうのは仕方ないでしょう」というアピールしたいとか「自分でもこのミスはありえないとわかっていますよ」みたいなアピールをしたがる人は本番に弱い人。壇上でラウンドを取られるごとに顔芸する人もいる。こういう人は格ゲー以前に人が弱い。本番に弱い。試合に集中できてない。
私のことである。
ウメハラは大会だ人が見ているとかそんなことはたぶんつゆほども考えていないはずだ
この点においてはサイコパスレベルにである
ではどんな心境なのか。
我々凡人はどうやって彼の境地に至るか
ヒントをDaigo the beasTVの中で聞いた
「オレここは昇竜か投げか〜、みたいな話にタンパクなのよ。そんなの運じゃん」
このセリフに格ゲーマーとしての自分も近ごろだいぶ助けられている
そうか、迷うような択を選んでハズレだった、ということはあまり気に病む必要はないんだと思えるようになった
対人戦で読まれてはダメなのは手癖
これを読まれるのは隙以外の何物でもない
しかし迷って出した結果が相手の準備とたまたまマッチしたというのはほぼ運である
なぜなら直前までこちらの脳内で50:50だったものを読みようがない
この割り切りがあると、負けた試合にも悲観的にならなくなってくる
対戦相手を強いとか上手いとか評価するのは本来勝負には純粋にはあまり関係がないことだ
勝つにはもっと現状を具体的に考える必要がある
運で負けるということは運以外の要素はどうだったか、知識か、技術か、反射神経か
負けた要素を絞っていくと案外に反射神経とか技術の要素は少ないことがわかってくる
人間基礎能力はそんなに変わりない
そうすると後は相手から知識を引き出すだけの作業になってくる
そう割り切った試合は勝ち負けよりただの分析試合のように客観視できるようになってくる
そのため、逆にこちらが今度は相手の対応力を実験しようという心境にまで至る
こうなってる時はおそらく誰しも能面フェイスとなっているのではないか
つまりあの顔は他人の目を気にしてない+実験をしている顔なのだ
初めから最後に勝ち越せればいい、そのためには最初の数試合知識の差とかで負けてもいいよという、逆説的に今目の前の勝ちに執着していない顔だったんじゃないかと思う
手癖が読まれるのは隙と前述したが、手癖になる理由は余裕がないからだ
試合全体を俯瞰して見れてない
しかし、この試合はこの先何試合もやる試合のために経験値をいくつか得る試合だと思って割り切っていると必死な相手が勝手にミスったりする
それは私も経験した
技術以外はウメハラに一瞬だけ慣れた気がしたが、その心理で冷静にコマンドをミスって負けるので、残念ながら心理を真似したら勝てるとまでは甘くないが、能面の顔の真実には多少近づけたんじゃないかと思っている
ウメハラ論 やーす @yasujinrai
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