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 我が家には父親と呼ばれる人間は居ない。私がまだ小さかった頃、五つ下の妹が生まれた直後に交通事故で死んでしまったらしい。

 らしい、というのは私にその記憶が殆ど無いからだ。写真をみたりお母さんから話を聞いたりしたことはあったけれど、実際のお父さんの事なんてほとんど覚えていない。

 それ以来、こうして私達姉妹を女手一つで育ててくれているお母さんには、本当に頭が上がらない。毎日仕事をしながら家事もして、きっと数え切れないくらいの苦労があるのだろうと思う。

 それでも、文句なんてひと言も言わずに私たちに沢山の愛情を注いでくれる、大好きなお母さん。お父さんがいなくても、そのことで寂しいと思ったり、日常生活に不自由を感じたことは無い。

 そんな大好きな母親に報いるためにも、絶対に良い学校に入って良い会社に就職して、そしていつかきっと家族を救うのだと、私はいつの頃からかそんなことを考えるようになっていた。


 それなのに……。

 あの日、三年前のたった一度のミスで、私はそれまでの沢山の努力を無駄にしてしまった。

 あの事件の後、私は近所の高校の二次募集枠になんとか滑り込んで、ギリギリ高校生になることができた。

 それでも、志望校からは二つもランクを下げた。

 きっと、今でも悔やんでいるのだ。私は。

 もっと体を鍛えておけば良かったんだ。いくら受験勉強中でもランニングくらいしておくべきだった。適度な運動は脳を活性化させるとも言うのだし。

 それとも、ちゃんと服を脱いでから飛び込めば。もしくは飛び込むんじゃなくて、ロープや浮き輪になりそうなものを投げ込むとか。いくらでも方法はあっただろうに。

 ……なんてこと、さすがに冗談だけど。


 本当はあの時女の子を助けなければ良かったって、今まで何度も思った。

 けれど、人の命を救った事を後悔しているなんて、なんだか自分が冷酷な人間みたいに感じてしまって嫌だから。

 だから今はもう、あの日の事は出来るだけ考えないようにしている。

 そのかわり、今はとにかく勉強をして、大学受験では今度こそ絶対に失敗しないようにしないといけない。

 それが今の私の目標で、やりたいことだ。



 私が通う県立中瀬川高校は、我が家から歩いて十分程度の距離にある。

 今からなら、歩いていってギリギリ間に合うくらいの時間。

 ちゃんといつも通りの時間に起きたはずなのに、全然余裕がないのはどういうことだろう。いや、どう考えても今朝の出来事のせいなんだけどさ。

 本当は自転車で行けばもうちょっと余裕を持って行けるのだろうけど、私には自転車には乗りたくない理由があった。

 自転車に乗れない訳じゃない。小学六年生の時に希と一緒に練習して、一応は乗れるようになったのだ。

 でも、コツを掴んですぐに乗れるようになった希に対して、私の方はいつまでたっても乗れるようにならなかった。

 そんなどんくさい姉に向けられた希の冷やかな視線や、日が暮れる頃にやっと乗れるようになった後、練習に付き合ってくれていたお母さんに言われた「あんたは本当にトロイわねー」という言葉はいまだにちょっとしたトラウマだ。

 別に自転車になんか乗らなくても、困ることなんてそうそう無いし。という言い訳をして、私はあれ以来、自転車に近寄りもしていない。

 ちなみに、希は今日も自転車で登校している。

 希が中学に入学したばかりの頃は、途中まで一緒に歩いて登校していたのに、最近じゃ自転車で先に行ってしまうようになった。

 こんなところでも姉離れを実感して、ちょっとだけ寂しくなる。


 いつも通りの通学路。

 いつもと違うのは、少しだけ早めに動かしている足と、頭のてっぺんで風を受けてはためく謎の物体。というか、物体かどうかも怪しいのだけれど。

 普段なら同じように通学する生徒たちで賑わう通りも、今日は時間が遅いという事もあって、もうあまり人が居なかった。

 これなら誰かに旗を見られる心配はなさそうで、私はとりあえずひと安心する。

 帽子を被る事も考えたのだけれどもう家を出てしまっているし、授業中まで被っているわけにもいかない。

 学校についたら髪形でなんとか誤魔化そうかなぁ。とかそんなことを考えながらも、学校に向かって歩き続ける。

 それにしても、さっきのはどういうだろう?

 これだけ目立つ物が頭の上にあるっていうのに、お母さんも希も何も言ってこなかった。まるで旗に気づきもしていないようだった。

 触る事も出来ないこの旗は、もしかしたら私だけにしか見えていない、ただの幻覚なのだろうか。

 ……うん。

 なんだか段々とそんな気がしてきた。

 だったら、全然気にする必要なんて無いよね。

 どうしてこんなものが見えているのかは分からないけれど、多分きっと、そのうち治ると思う。私はちょっと疲れているだけなのよ。私の精神は多分まだ正常のはずだ。

 うんうん。その通りその通り。

 ちょっとおかしな事があったけど、ここからはいつも通り、今日もしっかりと勉強しなくちゃね!

 考え事をしながらも、足だけは休まずに早歩きを続けている。そろそろ足が疲れてきたなぁ。


 ようやく道の向こうに学校が見えてきたそのときだった。

 後ろからドドドドッと地響きのような音が聞こえてきた。振り返ると、女の子が物凄い勢いで走ってきているのが見えた。

 あれは……、同じクラスの、確か、竹本さんだ。ほとんど話した事は無いけど、顔くらいはさすがに知っている。

 明るい性格で、クラスでも中心的な位置にいる人気者だ。

 いつも騒がしくしていて、正直私とはタイプが合わない。というかそもそも、クラスのほとんどの人とはそうなのだけれど。

 私は真面目に、誰にも干渉されずに静かに勉強をしていたいだけのだ。

 竹本さんは肩の辺りでそろえられた短い髪を大きく揺らしながら、まるで壊れた蒸気機関車みたいに、ものすごい勢いでこちらに向かって駆けてきている。口にはパンをくわえているようだった。その姿が、まるで昔読んだ少女漫画みたいで、私は唖然としてしまう。

 挨拶しようか躊躇しているうちに、竹本さんは私に気づかなかったのか、それとも最初から視界にすら入っていなかったのか、あっという間に私を追い越していってしまった。

 開きかけた口を閉じるのも忘れて、私は竹本さんを呆然と見送る。

 まさに猪突猛進といった様相で走り去っていく竹本さん。何とは無しにその姿を目で追っていると、突然、横の分かれ道から男の子が飛び出してきた。

 ほぼ同時に、目前に人がいる事に気づいた二人は、慌ててブレーキをかけようとした。

 けれど、どんなに慌てたところで、そんなに急に止まりきれるはずも無く、二人はほとんどそのままの勢いで激突してしまった。

 これまた、漫画だったら大文字で効果音が描かれるんじゃないかと思うくらいのものすごい衝撃音と、それに負けないくらい大きな悲鳴。道の向こうにいる私にもはっきりと聞こえるくらいだから、随分大きな音だったのだろう。

 その勢いに、見ていただけの私まで思わず眼をつぶってしまった。


「いっっっったーーい!」

「いっててて……」

 私は恐る恐る目を開ける。

 二人はぶつかった勢いで、もつれ合って重なり合うように地面に倒れてしまっていた。はたから見ていると、まるで男の子が竹本さんを押し倒しているみたいにもみえる。

 転んだ拍子に竹本さんのスカートが捲くりあがっていて、パンツが思いっきり見えてしまっている。

 ……青白の縞パンだった。なんとなく竹本さんにぴったりな気がして、私はそれをまじまじと見つめてしまう。

「ちょ、ちょっと!! ちゃんと前見て走りなさいよ!」

 と、ようやく我にかえった竹本さん。

「そっちこそ、曲がり角くらい確認しろよ!」

 男の子もそれに対抗するように、ケンカ腰で対応した。

「なんですって! ていうか、いつまで上に乗ってるのよ、早くどいてよ!」

 その言葉に初めて自分の体勢に気がついたのか、男の子が慌てて立ち上がる。竹本さんも遅れて立ち上がり、制服に付いた埃を手で払って、スカートの裾を手早く直した。

「この変態! もう最悪っ!」

 男の子がばつが悪そうな顔をする。関係ないのに私も思わず目線を逸らしてしまった。

 すみません。思いっきり見てました。

「なんだよ、ぶつかったのはお互い様だろ。上に乗ってたのは不可抗力!」

「そういって抱きつこうとしてくる新種の痴漢なんじゃないの? 警察に突き出してやるわっ!」

「なっ! バカ言ってんじゃねーよ! 俺は謝らないからな!」

 私が、止めた方がいいのかを迷っていると、男の子はそんな捨て台詞を残して、逃げるように走っていってしまった。

 見覚えの無い顔だったけど一年生なのかな。竹本さんはよっぽど腹が立ったのだろう。男の子の背中を憎らしげに睨みつけている。

「あ、あの……、大丈──」

 竹本さんに話しかけようと、足を一歩踏み出した。

 そのときだった。


 パンパカパパンパーン!


 テレビでよく聞くような、クイズ番組で正解したときのファンファーレみたいな音が辺りに響き渡る。

 突然聞こえてきた、その場違いなメロディーに、私は驚いて回りを見回す。

 誰かの携帯電話の音かと思ったのだけれど、そうではないみたい。耳をすましてみたけれど、どこから音が鳴っているのかすらもよく分からなかった。

 よく考えてみれば、ここには私と竹本さんしか居ないし、着メロにしたって音が大きすぎる。

 私はきょろきょろと、その音の正体を探す。

 ほどなく、それは簡単に見つかった。

「あ、あれ?」

 気がつくと、私と同じような旗が竹本さんの頭の上に、いつの間にか突き刺さっていたのだった。

 竹本さんの頭の旗は、私の旗に比べるとひと回りくらい大きいみたい。

 文字や色も私のものとは違って、竹本さんの旗は鮮やかなピンク色だった。文字は黒字で『恋愛』と書かれていた。

 今朝鏡の前で何度も確認した姿だけれど、頭の上に旗が立っている光景というのは、こうしてあらためて客観的に見るとなんだか、……とてつもなく間抜けな光景だった。

 どこかにカメラがあって、今にも『ドッキリ大成功』なんて書かれた看板が出てきそうだったけど、残念ながらどうやらそうではないみたい。

 いつまで待ってもテレビカメラは出てこないし、そもそも私にドッキリを仕掛ける必要なんてどこにもない。

 私も他の人からはあんな風に見えているのかな。

 そう思うと気が重い。

 ここまで人に会わずに来られたのは不幸中の幸いかもしれない。

 ……あれっ? そもそも私以外の人には見えていないんだっけ?


 その時、遠くからチャイムの音が聞こえてきて、私は我に返る。

 どうやら、あまりの出来事にしばらく思考停止してしまっていたらしい。

 竹本さんはとっくに行ってしまったみたいで、ちょうど校門をくぐっている姿が遠目に確認できた。

 私も、慌てて学校に向かって走る。


 休み時間になったら、竹本さんと話をしてみよう。旗について何か分かるかもしれない。そんな事を考えながら、閉まりかける門を、間一髪で通り抜けた。

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