2.死亡フラグが立ちました。

2-1

「咲っ、起きなさい!」

 耳元でお母さんの大声が聞こえてきて目が覚めた。


 お母さんが怒鳴っているって事は、今の時間は朝で、今日は平日だという事だ。つまり私は学校に行かないといけない。気分は最悪だったけど、仕方ないので目を開けてみる。

 まず目に飛び込んできたのは広げられたままの数学のノート。よだれが垂れてふにゃふにゃになってしまっている。

 こんな所によだれを垂らしたのは誰だ! 汚いじゃないか!

 と思って唇の端を触ってみたらベッタリとよだれが付いていた。状況証拠から判断するに、どうやら犯人は私しかいないらしい。

 とりあえず唇の端をつねっておく。

 まったく、だらしの無い口め! 

 ……痛い。


 どうやら、また机で寝てしまっていたようだ。

 そのせいか、身体を起こすと、体中がキシキシと痛んだ。

「やっと起きた!」

「体、痛い……」

「そんなところで寝てたら体が痛いのは当たり前でしょ」

「うぅぅ……」

「もう、いつまでも寝ぼけてないで早く顔洗ってらっしゃい。今夜はちゃんと布団で寝るのよ」

「はぁーーい」

 私が欠伸交じりにそう返事をすると、お母さんは呆れたように、ブツブツとお小言を漏らしながら部屋から出て行ってしまった。

 バタン! と良い音を立てて扉が閉まったのを横目で確認。

 私は椅子に座ったまま、背もたれにのけぞるようにだらしなく伸びをして、もう一度大きな欠伸をする。

 こんなところをお母さんに見られたら、また何を言われるか……。

 でも寝起きが悪いのは生まれつきなのだから、これはもうどうしようもない。私だってすっきり起きれるならそうしたいんだけど、できないんだからしょうがない。これは断じて私の行儀が悪いわけではないのだ。

 カーテンの隙間から覗く外のお天気は快晴みたいだったけれど、お世辞にも爽やかな朝とは思えなかった。

 それは、軋むような体中の痛みのせいでもあるし、それにさっきまで見ていたあの夢のせいでもある。


 またあの夢だった。

 私が正義のヒーローになり損ねて、高校浪人になりかけたあの日。

 あれから三年の月日が過ぎた今でも、私はあの日の事を、もう数え切れないくらい何度も夢に見続けている。

 私は頬を軽く叩いて、ループしかけた思考をなんとか切り替えようと努めた。


 しばらくはそのままぼんやりとしていたけれど、ようやく頭が回り始めたので、身支度をする事にした。いつまでも時間を浪費しているわけにもいかない。早くしないとそろそろまたお母さんが怒り出す時間だし。

 パジャマを脱いで制服に着替える。机に広げていた教科書を鞄の中に入れる。よだれ付きノートは……今日は別のノートにしておこう。

 教科書、ノート、筆箱、財布にハンカチ、ティッシュ……持ち物、オールグリーン。

 これで寝癖を直してメガネをかければ、どこからどう見ても真面目な優等生。そのうち髪が伸びたら、三つ編みにでもしようかな。多分面倒くさくなって途中で切っちゃうんだろうけど。

 身支度の完璧さを目視で確認してから、私は部屋を出る。

 短い廊下を進み、妹の部屋の前を通過して階段を下りる。リビングへと続く半開きの扉を視界の端に見ながら、洗面所のドアを開ける。

 神を梳かして顔を洗えば、今日もいつもどおりの一日が……

 始まるんだと思っていたのに。

 そんな考えは、十秒もしないうちに打ち砕かれる事になった。



 洗面所の鏡の前。

 顔を洗おうとした私はその場で硬直してしまった。

 鏡に映った私の頭の上。ちょうどつむじの辺りに寝癖に隠れるようにして、お子様ランチに立っているような小さな旗が真っ直ぐに突き刺さっていた。

「…………へっ?」

 ……うん。

 どうやら私はまだ寝ぼけているみたい。いや、それともまだ夢の続きを見ているのかも知れない。

 念入りに顔を洗う。冷たい水が頬を冷ましていくのが気持ち良い。

 顔を上げる。……やっぱり、まだある。

 頬を抓ってみる。

 ……もちろん痛い。

 うん。寝ぼけているわけでも夢でもないみたい。よく考えたら、さっきよだれの罰に唇を抓ったときも痛かったじゃない。

「えっと、なに、これ?」

 わけが分からない。

 と、とにかく落ち着こう。冷静になれ、私!

 そうそう。こういう時に落ち着いていられるのが大人の余裕だよね。クラスメイトには大人っぽいってよく言われるし。

 それって根暗って思われてるだけじゃないの? なんて妹は言ってたけど、決してそんなことは無い。……無い、よね?

 ああ、そういえば、こないだおっさんくさいってのも言われたっけ。年頃の乙女に対してそれは、さすがにちょっとショックだったなあ。ちゃんと姉を尊敬するようにって言っておかないと。……って、今はそんな事はどうでも良くて!

 …………訂正。

 やっぱり私に大人の余裕は無いみたい。思いっきり混乱している。

 とにかく一度状況を整理してみよう。

 私はいつも通り起きて、いつも通り身支度を整えて、いつも通り顔を洗おうとしたら、頭の上に旗が刺さっていた。


 以上。状況説明終わり。

 結論。

 理解不能。


 お、落ち着け、私。まずは情報を集めないと! 

 私は鏡越しに、頭の上の旗を観察してみる。

 大きさは大体10センチくらい。支柱の所はプラスチックみたいな質感の、のっぺりした白色で、長方形の旗の部分は赤い色をしている。旗が刺さっていると言っても、痛かったり血が出たりはしていない。そんなことがあれば、さすがの私でも鏡をみる前に気づくはずだし。

 髪をかき分けて、根元の部分を見てみると、旗の根元は頭皮と同化しているみたいだった。突き刺さっていると言うよりは、生えてきているって言ったほうが正確かもしれない。

 さらによく見てみると、旗の部分に何か文字のようなものが書かれているのに気がついた。赤地の旗に赤字で書かれているからとても読みにくい。私はメガネの位置を合わせて、目を凝らしてみる。

「えーっと……、し、ぼう……、死亡?」

 旗には『死亡』という文字。

「……え?」

 死亡ってなに? 私、まだ死んでないんだけどなあ。

 ……あれ? 死んでない……よね? 不安になって、体中を触って確かめる。

 うん、多分大丈夫だと思う。

 でも、なんだか不吉でイヤな感じ。

 誰か──って言ってもこんな事をしそうなのは妹くらいしかいないんだけど──誰かがイタズラでもしたのかと思って、とりあえず取ってしまおうと旗に手を伸ばしてみた。


 でも、無理だった。

 取れなかったという意味ではない。

 それ以前に、私は旗に触る事も出来なかった。伸ばした指先は、あっさりと旗をすり抜けてしまったのだ。

 鏡に映る旗はどう見てもそこにあるのに、どれだけ手を伸ばしても何の感触も伝わってこない。今だって目を閉じてみれば旗なんてどこにも無いみたい。

 私はまだ見たことは無いし、そもそも信じてさえいないけれど、もし幽霊を見たとしたらこんな風に感じるのかも。なんてそんな風に思った。


 色々と試行錯誤しているうちに、今度こそ、私は段々と冷静になってきた。

 けれどどれだけ冷静さを取り戻しても、疑問は一つも解決していない。それにつれて、不安も大きくなってくる。

 いったいこれは何?

 寝ている間に宇宙人に改造手術でもされてしまったのだろうか。そういえば、朝起きた時に身体が痛かったのはもしかしてそのせいかも?

 死亡だとか、縁起でもない事が書かれているし、なんだか怖い。

 大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けてみる。

 ふと窓の外に目をやると、そこには気持ちの良い青空が広がっていた。

 ああ、今日は本当にいい天気だなぁ。

 リビングからは、テレビの話し声が聞こえてきた。

 その音で、私は気づく。

 あっ! そうだ、お母さん!

 今朝私を起こしにきた時は何も言ってなかったけれど、あれはどういう事なのだろう。こんなものが頭の上にあったら、何か言ってきてもよさそうなものだけれど……。

 私はリビングの扉を勢いよく開けて、頭の上を指差しながら叫ぶ。

「お母さん! ちょっと、これ見て!」

 お母さんは天気予報を流していたテレビから、私のほうへ振り返った。

 天気予報では地味めの服装が似合う美人のお姉さんが、大型の台風が接近してきている事を告げていた。

 この人、これで三十代後半だっていうから、どうみても詐欺だよね。

 天気予報がやっているって事は、早くしないと遅刻しちゃう。今日は色々とのんびりしすぎてるから急がないと……、って今はそれどころじゃない。

「これって……、あんた寝癖ついてるわよ?」

 無駄に焦っている私とは対照的に、お母さんはいたって普通にそう言い放つ。

「嘘っ、後で直しとかなくちゃ! って、そうじゃなくて、頭のてっぺん!」

「なあに? 大丈夫、薄くなってないわよ。うちの家系にハゲはいないから安心しなさい。大体、まだまだそんな事心配するような歳じゃないでしょ」

 お母さんは何事かと怪訝な顔をしながらも、律儀に私の頭の上を検査してくれた。それはありがたいけど、

「違うの! だから──」

「おはよう」

 私の必死の質問は、ちょうどその時リビングに入ってきた希の挨拶にさえぎられた。

 お母さんも私の質問を無視して、希に話しかける。

「おはよう、希。朝ごはんは?」

「んー、食べてる時間ないから良いや、ごめんね。今日、日直だから早く行かなきゃなの。だから、もう行くね」

 希はそれだけを言うと、長い髪を翻して部屋を出て行ってしまった。

 私は慌てて、その後を追いかけて呼び止める。

「ねえ、希。私の頭変じゃない?」

「……何が?」

「ほら、この頭の上のほう」

「意味分かんないんだけど。確かに頭は変かもね」

 希は呆れたようにそう呟くと、もう振り返りもせずにさっさと出かけていってしまった。

「もう! なによ、あの子」

 私はそう言って、溜息をつく。

 希は今年から中学生になったばかりの、私の妹だ。

 昔は素直で良い子だったのに、中学に上がったと思ったら急に生意気になっちゃって……。昔の、お姉ちゃんお姉ちゃんって甘えてきていた頃が懐かしい。

 今や絶賛反抗期中で、最近じゃまともに会話をしたのも数えるくらいしかない。私が受験勉強で忙しいっていうこともあるけれど、ちょっと寂しい。

「最近あんたが構ってあげないから拗ねてるんじゃないの?」

 後ろからお母さんの声。いつの間にか追いかけてきていたらしい。

「仕方ないでしょ、大学受験では絶対に失敗できないんだから。三年前みたいにならないためにも、しっかり勉強しとかないとだし」

「それはそうだけど、咲は極端すぎるのよ。お母さんは別に無理して良い大学に行く必要なんて無いって思うわよ? それよりも、本当にやりたいことを見つけて欲しいんだけど」

「うーん……」

 そう言われても返答に困ってしまって、私は首をひねる。やりたいことなら一応はあるし、そのために良い大学に行きたいと思っているのだけど、どうやってそれをお母さんに説明したものか。

 うんうん唸っているばかりの私をみて、お母さんは苦笑した後、小さくため息をついた。

「……それより、時間大丈夫なの?」

 言われて腕時計に目を落とし、私は戦慄した。文字盤が時間の余裕がほとんど無い事を私に告げている。

「ああっ、もうこんな時間! 寝癖直さなくちゃ!」

 廊下の向こうから聞こえてくるニュース番組の音声は、いつの間にか血液型占いのコーナーに変わっていた。

 占いコーナーが終わる頃には家を出ないと、確実に遅刻してしまう。


 私は洗面所に飛び込むと、髪型を手早く直す。

 私の頭上では、相変わらず旗がドライヤーの風を受けてバタバタとはためいていた。触る事はできないくせに風はちゃんと受けるなんて、もうまったく全然意味が分からない。

 ふと、鏡越しにお母さんと目が合った。

 お母さんは、私の落ち着きの無さに呆れているみたいだった。

 お願いだからそんな目で見ないでください。という無言の祈りはもちろん通じるはずも無い。

「ご飯は?」

 返答は分かりきっているだろうに、お母さんが私に尋ねる。

「いい! いってきます!」

 寝癖地帯の制圧を確認して、私は家を飛び出した。

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