第12話「カニバリズム」

 8月。 

その日はいやに蒸し暑いくせに、蝉の声が聞こえなかった。


 夏休み中ずっと教師のようなお節介を焼くカナと喧嘩をしてヒルが施設を飛び出してきたのは丁度7時間前。

夕日の中を憂鬱に歩みを進める彼の手には、可愛いらしい紙袋が握られていた。

(チッ・・・すっかり忘れてたわ・・・・)

その日はカナの誕生日で、彼が握っているのは彼女へのプレゼントだった。

女性の好みがわからない思春期の少年は、カナの元同級生で今は上京してホストをやっているという高田にプレゼントを見繕ってもらっていた。

丁度帰郷していた高田とヒルが偶然出くわしたのが、4時間前。

彼からガーリッシュな紙袋を手渡され、今日がカナの誕生日であることを思い出したのが3時間前だ。

パーティームードを漂わせる先輩に「来るな」と釘を刺して別れたのが2時間前で、残りの時間は、カナとどういう顔で再開し、どのようにプレゼントを渡すかなどを街をブラつきながら延々と考えあぐねていた。

そして堂々巡りの議論を繰り返したあげく彼がたどり着いた答えは、自分は考えるのがあまり得意ではないということだった。

いたずらに時間を浪費しながら、彼は気がつくと自分が施設のすぐ近くにいることを知った。


 そしてその時彼は突然、憂鬱とはまた別の負の感覚に襲われたのだった。


 それは悪寒のようなものだった。

ヒルの背筋を走る冷えたモノは、真夏の熱気によるモノではないイヤな汗を彼に掻かせた。

 その風景は、ヒルの目にも代わり映えのない日常風景として見えていたはずだった。

しかしその空間は、彼が自意識で見ていると認識しているモノ以外の何かを、彼のレセプターに警告として訴えかけていた。

彼の冷や汗は、まるでレモンの外観や香りが自然と唾液を溢れさせるかのように、先見的な「何か」を伝えていた。


 彼は「イヤな予感」に任せて走った。

施設の方へ、脇目も振らず。


 もしかしたら彼はこの時、走る方向を間違えたかもしれなかった。

冷や汗が伝える先見的な「何か」が、「圧倒的な暴力」であると知っていれば。


 空が茜色に染まり、もうすぐ陽も落ちるというのに、施設には明かりがついていなかった。

ヒルは動悸を抑えながら、慎重に玄関のドアを開けた。


 ドアを開けた瞬間、彼の鼻腔をついたのは、かぐわしい料理の匂いだった。


ヒルはその時、浅くなっていた呼吸から大げさに息を吐き出し、安堵して見せた。

(なんだ、明かりぐらいつけろよ・・・)

彼はそこで意図的に思考を止めて、食堂の方まで歩みを進めた。

次第に小さくだが、カチャカチャと食器が擦れ合う音が聞こえて来る。

彼が悪態の一つでもついてやろうと口を開こうとしたその時、


 ヒルは背後から大きな力に押さえつけられ、地面に倒された。


「何か用かな?」

不気味な静寂を破り、聞き覚えのない男の声が部屋に響く。

ヒルは何とか立ち上がろうとしたが、背中にのしかかる見えない何かは、彼が顔を上げることすら許そうとはしなかった。

「テメェ・・・っ!誰だ・・・っ!?」

「なるほど、ここの住人か。お邪魔しているよ。・・・おい、離してやれ。」

男が言い付けると、ヒルの背中にのしかかっていた重力は雪が溶けるように消えていった。

部屋に陽が射していないからだろうか。ヒルは顔を上げて男を見たが、男の顔は影となっていて確認することはできなかった。

しかし一層奇妙なのは、そんなヒルにも、男がその暗闇の中で食事をした形跡が見て取れたことだ。

「不躾だが頂いていたよ。代金はそこにあるアタッシュケースを受け取ってもらえるかな。」

男が指を動かすと、男に向けられたヒルの顔は、銀のアタッシュケースの方へ向けられていた。

ヒルの意思ではない。何らかの外的な力が、ヒルの首を動かしたのだ。

その奇妙な感覚は、ヒルの背中にじわりと不快な汗を溢れさせた。

「欲を言えば、私としてももっと上品に食事を楽しみたかったのだがね・・・。いかんせん信仰には変えられまい。」

ヒルは後ずさった。

得体の知れない恐怖が、彼の全身に警告を発していた。

彼がその場を逃げずに踏みとどまれたのは、視界の隅に見つけた小さな布切れのおかげだろう。

何かの一部にも見えるそれは、彼にとってとても見覚えのあるもので、彼にとって大事な人が今日着ていたーーーー


「この国にはもっと多様性が必要だよ。きょうび食人主義者カニバリストなぞ珍しくもない。君もそうは思わないか?」


ヒルは男の問いに答えず、近くの椅子の足を掴むと、それで男に殴りかかった。

男はそれに動揺したそぶりも見せずに、また軽く指を動かした。

すると今度は巨大な質量がヒルの真正面からぶつかり、彼は車に跳ねられたように後方に吹き飛ばされた。

背中を壁に大きく打ち付け、ヒルは肺の中の空気を血とともに吐き出した。

頭も打ったのか、脳震盪のうしんとうのようにヒルの視界も薄暗く点滅し始めた。

そして、その時にあって初めてヒルは、男の指輪が微かに妖しく光っているのを知った。


「丈夫だな。まだ生きていたか。」

痛々しく咳き込むヒルを見て、さして興味もなさそうに男はつぶやいた。

「君もあの仏教徒ブッディストも理解に苦しむな。グラムいくらの命だろう?中身を確認したまえよ、釣りが来るぞ。」

「テ・・・メェ・・・カナたちを・・・どうしやがった・・・ッ!!」

畜生ちくしょうには話が通じないか・・・。これでも味は悪くないというのがな・・・。金切声かなぎりごえは耳障りだが・・・。」

ヒルは臓腑から湧き出す黒い怒りに任せて立ち上がり、男へ向かっていった。

しかし、男の使う圧倒的な「見えない暴力」は、ヒルをまるで虫を払うかのような気安さで返り討ちにした。

「・・・立ち上がれるほど力を抑えたつもりもなかったのだがね。・・・面白い。人類の進化か?いやまさかな・・・。」

ヒルの蛮勇は、男の関心を引いたようだった。

「スンスン・・・・かすかだが、匂うな。やはりコレもuser使う者か・・・。」

男は鼻を鳴らし何かを感じ取ると、ゆっくりとヒルの方に近づいていった。

そして男は、もはや声を出す気力も尽きた彼のシャツの裾を捲り上げ、露わになった上半身をまじまじと見つめた。

ヒルの記憶では、そこに面白いものなど何もないはずだったが、その男には、が見えているようだった。

「・・・ほぉ、よく組まれている。これで熱力タパスを抑えていたということか。確かこの儀式コードは・・・」

少日子根アマミキヨ系の儀式言語ぎしきげんごですね。インターナルの処理だけでなく魘魅えんみも可能な儀式で、この国の言葉では「禁厭まじない」とも呼ばれています。おそらくコレが死ななかったのは、生命維持に危機が及ぶイベントに対して防壁や熱力制御ねつりょくせいぎょ等が設定されていたからかと。」

朦朧もうろうとするヒルの意識は、男の後ろから、もう一人若い男の声を聞きとった。

「なるほど、ただのボウズではなかったということか。・・・まぁ、今となってはどうでも良いことだが」

男がそう呟いた瞬間、部屋から複数人が笑うようなざわめきが沸いた。

せん妄状態の幻聴であると、ヒルは信じたかった。

「・・・腹ごなしに遊んでみるか。」

「良いのですか?先日の一件もございますし、あまりここで休まれますと陰陽師おんみょうじも」

「見くびるな。これぐらいの術式に時間は取られん。」

男はヒルに向き直ると、ヒルの睥睨へいげいに真正面から、薄笑いで応えた。

「安心しろ。あのボウズは喰らっていない。使う人間を喰らうのは共食いのようで気分が悪いのでね。・・・ここを切り抜けられたら、死体と再開できるだろう。」

男の言葉を聞いた瞬間、ヒルは力を振り絞り暴れて見せた。

手負いの獣のように、怒りに任せて、憎しみに任せて。

しかしそれをあざ笑うかのように男がまた指を振ると、部屋にあった電源コードやPPテープが独りでにヒルの身体を縛りつけ、彼の必死の抵抗を虚しく抑えつけた。

「・・・そうだ。怒れ、憎め、激情で正気を保つのだ。ここを切り抜けて、私を殺しに来い。希望こそ生命いのちの糧、復讐こそ甘美かんびなるよろこびよ。少しばかり痛いが、希望ちからの代償と思えば安いものだろう。」

男が何事かをつぶやくと、男の指輪が妖しい燐光りんこうを発し、その顔をおぼろに照らし始めた。

ヒルを見下ろしていたのは、瞳なき真っ白な眼球が入り込んだ双眸そうぼうであった。

「さぁ・・・Mackasonマッカソンだ。」

燐光りんこうに包まれた男の手は、ヒルの腹部へまるで液体を相手取るかのように沈んでいき、そしてゆっくりと、彼の臓腑ぞうふを掴んだ。















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