第2話「黒猫」


「クロォ〜、おいクソネコォ〜」

夕日の差し込む寂れたアパートの六畳一間ろくじょうひとまに、ヒルの声が響く。

しかし、それに応える声はなく、少年の手元でかすかに掠れるビニール袋が、部屋の静寂をより一層引き立てた。

「いねぇのかよ」

少年は毒づき、ビニール袋から、真っ赤なリンゴを取り出した。

安物だが、ツヤはいい。

彼はそれを洗いもせずにかじりつき、どっと畳に腰を下ろす。

・・・甘い。甘いのは、どうにも苦手だ。


 窓から吹き込んできた三月の風が、ビニール袋を音を立てて巻き上げた。

雪もすっかり溶けちまったな・・・。

彼は夕日の差し込む窓を眺めながら、上京したての白銀の夜を思い出していた。

天涯孤独てんがこどくの身となり、地元で世話になっていた先輩の部屋に転がり込んだ後の、しばらくの記憶だ。

 彼は荒れていた。

一般的には、今も荒れている側に彼は立っているが、しかし少なくとも今は、自暴自棄にあえて自ら破滅に追いやるような蛮勇を慎むだけの分別は、持ち合わせている。


 当時は、その分別すら持ち合わせてはいなかった。

誰彼構わず跳ね回り、が出てきてもそれを止めない。

その愚かさを彼自身が思い知るのは、を開けられた後だった。

ここは彼の地元ではなく、巨大な金と力がうごめく資本主義の都会で、何の社会の後ろ盾も持たない少年の命は、あまりにも安かった。

 彼が銃創じゅうそうを腹に抱えながら追っ手から逃げる時、彼自身「あまりにあっけない死」を強く自覚したものだ。

そして「死」というファンタジーが、急にリアルに感じ取れた時、彼はに「生きたい」と強く願った。


 黒猫と出会ったのは、そんな時だった。


 真っ白な雪に血痕を落としながら彼が生き延びるために目をつけたのは、路地裏にうずだかく積まれたゴミの山だった。

収集日を間違えたものを繰り越して積んでいたものだろうか、それらは人が一人隠れるには丁度いい大きさと量を持っていた。

身寄りのないガキの墓場にも丁度いい。そんな冗談も彼の頭に浮かんだ。


 だが、そこには先客がいた。

墓場によく似合う、真っ黒な、雌猫だ。

彼が彼女の城に入った時、彼女は凍えながら、小さく息を吐いて彼を威嚇したが、それはあまりに力のないものだった。

「・・・なんだお前、怪我してんのかよ。」

かすみ始める少年の目には、その黒猫は暗闇に溶け込んでしまいそうだったが、それでも傷から溢れる血液は、真っ白な絨毯にか黒い模様を描いていた。

「俺も人のこと言えねぇか・・・」

悪いな、借りるぜ。彼は彼女に力ない声で断りを入れて、冷たいゴミの棺桶かんおけに横たわった。

彼女は彼に答える代わりに、その弱々しい威嚇をやめた。

満身創痍の一人と一匹の間に、その後の言葉はなかった。

 俺もセンチになったもんだな・・・。彼は思った。

こんな猫外に放り出せばいい。こんなクソ狭いゴミだめで物音でも立てられて、追っヤー公に見つかれば最悪じゃねぇか・・・。

そんなことを考えながら、彼は黒猫のあやしい瞳を覗いた。


 なんとなく似ている、彼はそう思った。

他人を信用せず、自分の力を信じ、孤独を生きる。

他人のぬくもりなんて求めない。いや違う、、俺たちはうしな––––––––––


 ––––––––彼の思考をさえぎったのは、罵声と怒号だった。

いきり立った足音が、こちらへ近づいてくる。

そしてその足音は、撃鉄を起こす音が彼らにも聞こえる距離で、止まった。

 緊張がその場を満たした。

永遠にも思えた数秒の中でも、彼は目だけは開けていたが、彼はその時、黒猫が口をかすかに動かしていることに気がついた。

 それは一見呼吸のようにも見えるが、彼の研ぎ澄まされた今際いまわの五感には、何かメッセージを孕んでいるように感じ取れた。

そしてあろうことか、黒猫は前足を動かし、を叩いたのだ。


 終わった。

それはゴミ袋のビニールが掠れる、ほんの小さな音だった。

だがその音は、少年に終わりを悟らせるには、十分な音量を持っていた。


 しかしどういうわけか、終わりは不意に予定を変えた。

彼の期待を裏切り、男はきびすを返して足音を遠ざけていった。

それは何か、を少年に与えた。

 しかし何はともあれ、彼は生き延びたのだ。


 しばらくして彼がふと黒猫に目を向けると、その妖しい瞳が閉じられていることに気がついた。

先ほどよりも憔悴しょうすいしている。明らかにそう感じさせる按配あんばいだった。


 西宮ヒルは、動物が嫌いだった。

クサいしウザいし面倒だと、彼は考えていた。

だから彼は、その黒猫をそのまま放っておいてもいいはずだった。

たとえ彼が動物好きだったとしても、その脇腹の風穴をかんがみれば、ヒューマニズムを行使して自分を優先しても許されるはずだった。


 だが、彼はそうしなかった。

自分でもアホらしいと思いながら、彼は黒猫を連れて帰ろうとした。

右手は風穴をおさえるために塞がってしまっているので、彼は片手で黒猫をどうにかしなくてはならなかったが、

その時初めて彼は、猫が首にかけるのに丁度いい形状をしていることに気づいたのであった。


 「クソっ・・・・」

深刻かつアホみたいな格好になってしまったが、少年は命の重さを首に感じながら、生き延びるために帰路きろを急いだ。

 たどたどしい足取りでやっとのこと路地を抜けると、うるさい街明かりネオンが彼の目を刺してきた。


 あぁ・・・今日はクリスマスだったか・・・。

出血によって頭が混濁こんだくする前も混濁した後も、彼は神や宗教の類いを信じてはいなかったが、この時ばかりは彼も、「クリスマスの奇跡」に感謝したのだった。


 そのあとのことは、彼もあまり覚えていない。 

だが、うらぶれた六畳一間にて、ドラッグストアと自然の働きに任せて安静していた甲斐もあり、二人とも命拾いすることができた。

 互いの傷が癒えた頃には、二人と一匹でバカをやれるくらいには、打ち解けもした。

動物嫌いなヒルだったが、そのうち彼は、その猫に興味を抱くようにもなっていった。

 先輩が仕事に出かけてからは、ヒルは一人で夜の街をぶらつくことが多かったが、今ではその隣に、その黒猫がついてくるようになった。

だがそれは犬のようにではなく、なんというか、対等ヅラをしてだった。

ヒルは黒猫のその態度が、案外嫌いではなかった。

彼は人に軽んじナメられるのは死ぬほど嫌だったが、媚びられるのもまた、反吐が出た。

 黒猫は、そんな繊細せんさいな十代の面倒くささにうまく対応していた。

つまり、少年はその猫のことを気に入っていたのだ。


 だからヒルは、ここ数日黒猫を見かけないことにも、ある種の寂しさを覚える反面、割と納得もしていた。

あの猫だしな、またふらっと帰ってくんだろ。ヒルは軽く笑んだ後、畳に仰向けに倒れた。

小動物一匹いなくなっただけでも、この狭い部屋なら広くなったように感じる。

気がつくと、窓の外では夕日が落ちて夜が始まろうとしていた。

その仄暗さは、内省ないせい的な部屋の静寂と相まって、彼は記憶を、より過去に巡らしてしまいそうになった。


 彼を天涯孤独の身に堕とした、あの狂気の一夜を・・・・


 彼はせり上げてくる吐き気を堪えて、テレビのリモコンをとった。

あまり考えすぎるな。幻覚か現実か、今だってはっきりしないだろ・・・。


 バラエティー番組のバカ笑いは、彼の気を紛らわしてくれるだろうと期待したが、それすらもの高笑いに重なるようで、彼の動悸どうきは治まらなかった。


 


そのうめきだけが、彼の慰めだった。






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