これもまた執念の一球

カッ!!



 耳に心地よい乾いた打撃音とともに、飯塚の放った打球は右中間方向に飛んでいき、そして破った。センターの駿介が素早く回り込んで処理し、飯塚の二塁進塁こそ阻止したが、ランナーの仲はツーアウトだったために打った瞬間から走りだし、減速しなかったために三塁にまで達していた。カバーリングのために三塁ベンチ前に走っていた五月は、肩で息をしながら現実を冷静に振り返っていた。


(また、甘く入っていた…。飯塚さんがホームランバッターじゃなかったから、ヒットで済んだんだ)


「しっかりしろよ、どんどんボール甘くなってるぞ。上位打線に回ったけど、しっかり集中していこう」

「…そんなに、甘くなってます?」

「あ、ああ。少なくとも、この回の頭からずっとな。穴吹にど真ん中投げてから、キレがないというか」

「そうですか。ごめんなさい。でも、大丈夫です。なんとか抑えますから」


 二宮とやり取りをかわし、五月は強がってみせたが、内心は穏やかでない。明らかに自分の身体、特にボールを操るのに欠かせない握力が下がっていることを確信したからだ。


(今のボールじゃ、望月さんを抑えることはできないかもしれない…。なんとか、ここで切らないと)


 しかし、その焦りが繊細なコントロールを奪う。続く安川に対して、五月は丁寧にコースを突こうとするが、過剰に意識するあまりストライクが入らない。これまでになかった四球連続ボール。あっさりと歩かせてしまい、場面はツーアウトながら満塁のピンチを作ってしまった。そしてここで迎えるのは望月だった。バッターボックスに入る直前、望月はバットのヘッドを五月にかざして嘲笑した。


「ククク、どうも疲れが出てきたらしいな。女が男の世界に来るもんじゃないってことを、俺のバットで教えてやる」


 その笑みとヘルメットのつばから覗く眼光に、五月は思わず気後れしそうになる。弱小球団とはいえ、長年中軸を張ってきた打者であり、五月のボールに対してただ一人翻弄されていないバットコントロールは侮れない。緩急も制球もつかなくなってきている今の自分で抑えられるのか。五月はロジンバッグを手にして、懸命にその不安に耐えた。だが、力をこめようとしても、ロジンバッグを持つ左手の力は入らない。


(まずいな…握力すごい落ちてる。あの人、すごいムカつくけどテクニックはある。コースを突いてもボールに威力がないんじゃ、打たれるかもしれない。…でも)


 五月はロジンバッグを手から放し、帽子のつばを摘まんだ。そして前を、打席の望月をにらんだ。


(こういう状況で、このレベルのバッターに怯んじゃえば、独立ですら通じない!ここがあたしに勝負どころだ。渾身の一球を投げてやる!)


 その時だった。


「五月」


 いつの間にか、マウンドに将人が立っていた。五月にとっては間が悪いタイミングでの声かけだったので、思わず憮然とした。


「あんたねえ…。あたしが今行こうとしてんのに、何で邪魔したのよ」

「やっぱな。お前、頭に血が上ってるぞ。今お前、全力でど真ん中行こうとしてたろ」

「え?なんで!?」


 将人の指摘に、五月は図星といった反応を見せ、将人はため息をついた。


「いいか。気合いだけのボールは、疲れてるときにはなんの意味もねえ。ここで投げるべきは、今の手で投げられるボールだ。…力を入れるだけがピッチングじゃねえぞ。そもそもお前の武器はボールだけじゃねえ。ここもだろ?」


 そう言って将人は、拳を自分の胸にあて、守備位置に戻っていった。ポカンと将人を見ていた五月。そして、口元を緩めた。


(言ってくれるじゃん。でも、確かにそうだ。気合いでどうにかなるもんじゃないもんね。だったらいっそのこと…)


「どうしたお嬢ちゃん。打たれるのが怖くて集中できなくなってるのかい?」

 打席の望月がそう嘲笑してきた。対して五月は堂々と笑い返した。

「かもですね!じゃあ、そんなあたしのボールを打てなかったら、望月さんは大したことないってことですよね!」

 望月の顔から笑みが消えた。改めてバットのヘッドを自分に突き出す。明らかに殺気立っている。そんなバッターに五月が投じたのは…


(このアマぁ…)


 ど真ん中に放られたストレート。それも、飛びっきりの『抜け球』だった。小学生レベルのスピードのボールを、いかに頭に血が上っているとはいえ、打ち損じるはずがない。快音を残して打球はバックスクリーンに向かう。


「思い知ったかこのガキが!!そんなボールで俺がやられる訳ねえだろうが!!」


 スタンドインを確信し、望月は五月を怒鳴りながら走り出す。だが、五月は笑みを崩さない。


「まだわかりませんよ?ちゃんとフェンスを越えてこそホームランじゃないですか」

「ふんっ。強がりはよ…せ?」


 嘲笑していた望月だったが、その表情がひきつる。センターの駿介が猛然と打球に向かって走っていく。そのスピードはまるでチーターのようで、あっという間にフェンスに達する。


「あれ?これ越えちゃうか?でも五月ちゃんのためなら、俺はなんだってやるぜ!」


 そう言うや、駿介はひょいと外野フェンスのラバーに足をかけてよじ登る。そして、ドンピシャのタイミングでジャンプ。何もしなければフェンスを越えていたはずの打球を、あまりにもあっけなく捕ってみせ、ひらりと鮮やかに着地。球場の観客から拍手喝采の中、駿介は五月に向かって叫んだ。


「さっつきちゃーん!!俺ってすごいっしょー!!」


 一方で五月は、腰が抜けたかのように、マウンドにペタリと座り込んでいた。


「は、はは。よかった~…」

「お前は大したやつだ。あんなボールを投げるなんてよ」


 そんな五月に将人が駆け寄り、肩を叩いて労った。


「ボールが遅かったのが最後に生きたな。確かに小学生並みのスピードだったけど、ただ叩くだけじゃスタンドまで持っていけねえボールだ。俺のアドバイス、効いたか?」

「うっさい。女に博打を打たせるように仕向けるなんて、あんた最低ね。…あれ?」


 将人が差し出した右手を握った五月だが、膝から崩れ落ちて再び座り込む。下半身の踏ん張りが全くと言っていいほどきかない。


「ヤバイ、全然立てないや。手だけじゃなくて、足もへばっちゃった」

「なんだよ。じゃ。しょうがねえな」

「え、あ、ちょっと!」


 見かねた将人は、おもむろに五月を抱えあげるが、その抱き上げ方に五月は頬を赤らめる。


「ちょ、せめておぶんなさいよ!なんで『お姫様だっこ』なの!?」

「イテッ。つねるなバカ!おぶったら胸が当たるから変な感じになるだろ!お前軽いしこれで十分だろ」

「やだ!!おぶってっての!こういうマウンドの降り方恥ずかしい!」

「あっ!将人ズルいぞ!五月ちゃんともう結婚した気か!?」

「黙ってろ駿介!お前はバカか!?」


 やいのやいのと引き揚げていく五月たちを見やりながら、望月は一塁ベース上で立ち尽くしていた。


「バカな…。この俺が、こうも無様に…」


 紅白戦の大勢は、これにて決した。

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