散歩 ――二十代後半・男(会社員)
『パンが食べたくなったら、パン屋へ行こう』。
そんな言葉を聞いたのは、確か高校の時だったか。好きなパーソナリティがゲストのラジオ番組で、やる気が出ない学生に向けて発したアドバイスか何かだったと思う。
何を当たり前のことをと思われかねないその言葉が、当時の心の真ん中にすとんと落ちた。
だからだったのだと思う。いや、間違いなく。
やることもなく夜遅くまでダラダラと過ごした挙句目が覚めたら昼過ぎだったその日、カップラーメンでも食べようかとお湯を沸かしながらふと『ああ、パンが食べたいな』と思って外へ出た。
街は晴れて思いの外暖かく、花粉で膨らんだ風が心地よくシャツの隙間を埋めてくれた。
スーパーの近くまで歩き出て、すぐに思い付いたパン屋は二か所。右の駅と左の駅。左の方はスイーツなどを売っているやや女性向けの店で、今まで遠慮していた場所だった。対して右の方は割かし有名な古い店で、何度か足を運んだことがある。
――さて。
道の真ん中で首を捻る男に一瞬視線をくれた自転車の主婦が目の前を通り過ぎる間に、真っ直ぐ行ってみようかと頷いた。
通勤時に使う見慣れたスーパー脇の路地を抜け、いつもの駅へと折れる道を真っ直ぐに。
たまに来るラーメン屋を通り過ぎ、初めて見る見慣れた外観のコンビニを横目で見ながらもうちょっと。住宅街の入り口になぜかあったとんかつ屋の誘惑と通りに並べた花に水をあげるお婆さんに目を奪われていると、塀の上の猫がじっとこっちを見つめているのに気が付いた。
まるで不審な人物を見る様に鋭くなったその瞳が、小さな門番気取りに見えて可愛く思えた。
『ニャー』と小声で挨拶をすると、街の門番様は金と緑の瞳を逸らして真っ黒な毛並みを見せつけて来た。
「な、この辺にパン屋、知らないか?」
周りに人の良さそうなお婆さんしかいない事を良い事に、猫に話しかける不審な男。
そいつのニヤケ面を一瞥すると、小さな門番は極めて気だるげに塀の上を歩き出した。
「お? お?」
お尻を揺らしてセクシーに塀の上を歩く黒猫の後ろを、戯れにくっついて歩いて行く。
見知らぬ街を気ままに歩く黒猫は、なんだか異様に格好いい。
まるでロックスターが世界のシステムに中指を突き立てているかのように、晴れた空に伸びる尻尾と眠たげな歩き方。だからこっちは思春期の少年の様に心の拳を振り上げながらのんびりと。
緑色の三角屋根に近づいてこんなところに教会があったのかと驚いたり、狭い庭に所狭しと並んだ彫刻を見ればもしかしてその道では有名な方の御宅だろうかとわくわくしたり。
体感で三十分程しか歩いていないと言うのに、辺りはすっかり知らない街だった。
四年も住んだ土地なのに、一つ道を越えただけでこうなるのかと小さく感動。
昔好きだったRPGの主人公の気分で見知らぬ街とその住人を見回していると、旅の相棒がしゅるりと塀の向こうへ姿を消してしまった。
あわよくば伝説の武器でも咥えて戻って来てくれないかと四秒待って、諦める。
仄かに湧き上がった一抹の寂しさと同時に、ここがどこだか分からぬ場所で目的地も仲間もいないという事は、これはもしかして迷子なのではなかろうかと思った。
位置情報機能を搭載したスマホがポケットにあるこの時代に迷子とは。
そんなことを呟こうとして短文を消し、ポケットへと押し返す。
ならば時代の迷子になってやろうと思ったのだ。今は亡き仲間の様に、世界と時代に尻尾を突き立てる反逆者になってやろうじゃないかと。
なのでやがて見えてきた小学校の舞い散る桜吹雪にもカメラを向けず、駅の方向を示す案内なども無視をして、見知らぬ街の迷宮の深くへと突き進む。ああ神よ、願わくばこの勇者に通り過ぎる自転車のお巡りさんにびくりとしない心の強さを与えたまえ。
明らかに個人宅といった風体の玄関に掲げられた『舞踊教室』と言う謎の看板。その向かいにある鏡張りのダンススタジオ。いつの間にか住宅街にそんなものが混じり始めた事に気が付くと、いつの間にか華やいだ商店街が目の前だ。
居酒屋や弁当屋が並ぶ通りの奥を覗きながら、もう三駅分くらい歩いたのかと驚いた。
でもまだいける。もう少し。
考えるまでも無く、足は進んだ。
ここまで来ると、いよいよアウェーだ。あのスーパーとかあの飲み屋とか、電車から見ていた風景の裏側が目に入る。オレンジが濃くなった道を照らす柔らかな灯り、元気にチラシを配っているアルバイト、原付に乗ってのろのろ走るカップル、仏頂面でのれんを掛ける蕎麦屋の御主人。うん、良い街だ。
無心。それからしばらく無心で歩き、新鮮な風に心をゆだねる。
一歩足を繰り出す度に、発見の驚きと出会いの喜びが身体の中を抜けていくような。
忘れた気がする。夕べ考えていたことも、訳も無く溜まっていった粘着質な感情も。
やたらと目につく悲しい事件や腹立たしい出来事、誰かのマイナス気味の心の吐露。それは違うだろうと言いたくなる様ないくつかの意見。同じモノを好きなはずなのに微妙に違う愛し方。その違いに苛立つ自分。一人でいるとそればかりが気になってしまうこの性格。
目の前の人達の幸せに触れる度、自分を苦しめるどうでもいいはずのモノ達が少しずつ浄化されて行く様な。本当にどうでも良くなっていく様な。
多分、喜びとか楽しさとか驚きとかそういった刺激的な感情は一瞬にして身体を突き抜けて、それなりの笑顔と共に相応の気分を連れて行ってくれるのだろう。そういう、汗みたいなものなのだ。心の気化熱。涙が心の汗とか言うのも、もしかしたらそうなのかもしれない。感動して泣くことがストレス発散になると言う人もいるらしいし。
ただ、やっぱりそれは一瞬だ。対して、重たい感情は沈殿する。どんな小さな出来事だろうと、心の内側にコーヒーカップの茶渋の様にこびり付く。そして思考と思い出と言う刷毛が、その感情をゆっくりと塗り固めていくのだろう。気付かぬうちに身動きが取れなくなる位に、少しずつ。
そんな事を考えて、暗くなりかけた空を見た。
見慣れぬ街で見る薄紫の空は不思議と爽やかで、雲の形すらどこか秘密めいていて笑ってしまった。
少し肌寒さを感じた春の終り。何一ついいことの無かった週末の小さな小さな冒険の締めくくりに、見知らぬ商店街へと足を向ける。
いい加減に腹が減った。何を食べようか。何でもない様なおいしいモノが良い気がする。
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