帰郷 ――三十歳・女(母)
「お帰り」
玄関先でにこりと笑った母の笑顔に、緊張が一気に切れた気がした。
「ただいま」
困ったように笑いながら、私は腿の裏に隠れていた息子の頭を軽く押した。
「……こんにちは」
「はい、こんにちは。お婆ちゃんですよ」
つっかけに履き替えたたきにおりた母が、満面の笑みで息子の前にかがみこむ。子供は何だか恥ずかしそうに、私と母の顔を見比べていた。
「そう。お婆ちゃんだよ。私のお母さん」
込み上げた物を唇で噛みとどめ、頭を撫でながら教えてあげると、息子はもじもじしぺこぺこ頭を下げ始めた。
おいでおいでと息子に向かって手を広げる母の方へと、軽く子供の背中を押す。すると彼は、やっぱり恥ずかしそうに母の腕の中へと吸い込まれた。
皺が目立つ顔をくしゃくしゃにした母を見ながら、私は強く腿を握った。
子供の前では泣くまいと、決めていたから。
父は、居間に座ったまま難しい顔で新聞紙を広げていた。
「ただいま」と声を掛けると、「うん」と短く頷いた。それからそうっとこちらを振り向いた彼に、息子が促されるまでも無く「こんにちは」とあいさつをした。
「こんにちは」
思い出よりも痩せて小さくなった父が、眼鏡の顔に少しの緊張を滲ませながら頭を下げた。それが、少し可笑しかった。
一通り自己紹介を済ませると、父は『何か飲むか?』と言いながら席を立ってしまった。私は何だか気が抜けて、向こうには台所があるんだよなぁなんて、懐かしく思いながら居間をぐるりと見回していた。
ふいにちょんちょんと脇腹を小突かれて振り向けば、子供がひそひそ声で『きんちょーするね』と言って来た。
「そうだね」と返しながら、柔らかな髪を撫で、ごめんねと言いそうになったのをぐっとこらえた。どうして堪えたのかはわからない。多分、言いたくなかったのだと思う。
それから四人、出しっぱなしのこたつを囲んでしばらく何でも無い話をした。テレビのチャンネル増えたんだ、とか私は言って。母は子供に学校の話を聞いていた。一生懸命に喋る息子の顔を見つめながら、父が何度も頷いていた。
やがて、私は一人、縁側に繋がる窓を開けた。
孫と語らう両親を邪魔したくなかったのがほんの少し、後のほとんどは、テレビに嫌いな芸能人が映ったからだった。私より少し若いその人が子育ての話をする度に、私の身体には力が入る。そりゃあんたは良いでしょうねと嫉妬して、自分が情けなくなり、やり場のない感情にいらいらしてしまうから。それで、子供に八つ当たりしてしまいそうになる。そう言う自分が、たまらなく嫌だから。
縁側に座って外を眺める。見慣れたはずで見慣れていない、緑溢れる田舎の風景。あまり好きでは無かったはずなのに、何だかやっぱりほっとした。
振り向くと、母が子供の頭を撫でていて、あいつはどうしたらいいのかわからない感じに縮こまっていた。長めに目を閉じ、息を吐き出す。見上げた空が、とても綺麗で笑ってしまった。
あの子が生まれてからこっち、これ程ほっとした時間は無かったように思う。『逃げ場』と言ったらあの子に悪いけれど、こんなに何もかもを忘れた瞬間は、一秒も無かったなあと。
空っぽの心で、見知らぬ家が増えた辺りを見回す。そして、ご近所さんに子供の姿を見られたらまた両親が何か言われるんだろうな、とか。あの子は、ちゃんと出来るだろうかとか。苛められたりしないだろうかとか。今更の事を考えてまた少し憂鬱になった。
「おかーさん」と呼ばれて反射的に振り向く。なあに?と聞く前に、息子が「これ」と言って小さな手を差し出してきた。
「おじいちゃんがくれた。おいしいよ」
息子の手に乗ったおまんじゅうの欠片を見つめながら、私はぱちくりと瞬きをした。
「おいしいから、おかーさんにも、あげる」
口の端にあんこをつけたまま笑う息子を、私はぎゅっと抱き寄せた。
「……食べないの?」
戸惑う息子の声を耳元に聞きながら、ぎゅっと、ぎゅうっと抱きしめる。
頑張ろう、と思った。この子と二人、もう一度しっかりと生きていくために。
私は、ここに母親として帰ってきたのだから。
「うん。ありがと。ありがとね。今、食べるから」
子供の前で泣かない様に、顎を息子の肩の後ろに押し付けながら、私は何度も頷いていた。
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