短編集 ありふれた幸せ

たけむらちひろ

ハイボール ――二十代後半・男性(会社員)

 恋人も予定も無い週末、焼肉を食べた。


 本当は駅の向こうのラーメン屋に行こうと思っていたのだけれど、息苦しいほどの蒸し暑さと、ふと覗いた店に貼られていた『おひとり様大歓迎!』の手書きポップに誘われる様にしてふらりと扉を開けたのだ。


 手持無沙汰にテーブルを拭いていた可愛い子に案内されて壁際の二人掛けの席に座り、ビールとつまみを楽しみながらタン塩が色付いて来たところで華麗にひっくり返す。ジュワッとグー。油が焦げた香りでお腹が鳴った。


 ハラミが到着する頃にはすでにジョッキは二杯目で、ほろ酔い気分になっていた。

 『いらっしゃいませ!』の声を掻き消す様にワラワラと騒がしく席へ着くギター学生達を横目に、弱くなったなあ、と実感する。


 あれくらいの頃には、ビールなんか水みたいなもんだと思っていたはずなのに。


 ぼんやりと思い出すのは、古いグラスを片手に『おっちゃん水で薄めてんじゃないの?』などと笑いあっていた狭くて汚い居酒屋のヤニ色の壁。


 おいおっちゃん。もしかしてあのビール、マジで薄めてたんじゃねえよな? とニヤついた口元をジョッキで隠した。


 さっきの女性にカルビとセンマイを頼んだ所で、近くの席に家族らしきグループがやってきた。『やっきにくやっきにくー』と滅茶苦茶なオリジナルソングを口ずさむ妹さんを先頭に、テンション高めのお父さんとにこやかに笑うお母さんが通り過ぎ、少し遅れて中学生くらいの仏頂面のお兄ちゃん。


 うん、気持ちは分かる。家族と飯に行くなんて一番恥ずかしいお年頃だ。かと言って一人家で飯を食うわけにもいかず、とりあえずキレた顔をしておくんだよな。万が一にも、同級生に見られた時の為に。


 まあ、そういう分かったような事を言われるのも気に食わない、か。


 センマイざしの酢味噌でビールを飲み干して、ミノを奥歯で噛みながら厨房の蛍光灯を眺めてふと思う。

 いつから、一人で飯を食うのが平気になったのだろうかと。

 中学の時は、家族そろって飯を食べるのが普通なんだと思っていた。

 高校の時は、一人で食べるのが当たり前だったけれど、今思えば『平気』では無かった。あの頃は、多分、あえて他人のいない場所を探して食べていたから。黙々とパンを齧る自分が、誰かに馬鹿にされている様な気がして。そう言う自分を感情や理論で武装正当化しつつ、劇的な瞬間を空想しながら、遅ればせながらの思春期を謳歌していた。


 ノートに歌詞を書いたり、ギターを練習したり深夜ラジオに熱中したりと、ベタな事をさんざんやった。今やそのラジオでもネタのお題にされる位のどベタなのに、なんだかそれなりに本気だったんだよなぁ、と。


 ギャハハと言う、学生グループの笑い声。言われて見れば、誰も煙草を吸っていない。そう言うサークルも、もう珍しくは無いのだろう。学生会館の中庭にあった灰皿も卒業するころには撤去されていたし、会社の後輩にも吸っている奴はいない様だ。


 禁煙しろとうるさかった大学時代の彼女を思い出す。今頃何をしているだろうか? 煙草を止めたのと別れたのはどっちが先だったっけとか。そろそろ結婚とかしてるかもとか。


 カルビにしようか冷麺にしようか迷って結局頼んだクッパを平らげ、席を立つ。

 意外と高くついたけど、焼肉だから仕方ない。社会人になって、そこそこの金はあるし。

 お釣りをもらう時に、可愛い店員さんの指先がほんの少し手の甲に触れた。

 ありがとうございましたの笑顔が素敵だった。


 ごちそうさまと扉を開けると、相変わらず蒸し暑くて笑えてきた。

 ポケットの中で、学生時代の友人が『今から飲みに来ないか』と馬鹿な事を言っている。

 時間はまだ七時半。明日は休みだ。特に話題は無いけれど、かと言って断る様な理由も無い。


 ガード下の人ごみの中、『よし』と気合を入れ、伸びをして、慣れ親しんだ駅に溶け込む。

 初めて買ったウコン的な奴をホームでちびちび飲みながら、右に左に指をさす駅員さんに『お疲れさまです』と胸で呟く。


 何にしろ、明日は休みだ。予定も無い。朝まではちょっときついけど、まだまだ絶対無理だって年じゃ無い。なんならタクシーであの小汚い居酒屋に乗り込んだって良い。そうしたら、卒業の時に撮った写真と寄せ書きを見て馬鹿笑いして、見ず知らずの貧乏な後輩達に奢ってやろう。あの頃の小さなラッキーを、他人に与えられるくらいの余裕は出来た。


 ドアが開くと同時に重力に負けた様に降りてくるスーツ姿の仲間達を眺めながら、大人になるのも悪くはないなと、少し思った。



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