毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。13
通路の奥まったところには、日本人にはあまり馴染みのないだろうチャペルがある。薄暗く柔らかい赤茶けた灯りに満ちた、それほど広くはない厳かな空間に、会衆席が左右にわかれて五列並べられている。その右手側の手前の席で女性が手を組み顔を伏せ真剣な祈りを捧げていた。ほのかに照らされた横顔をようく見ると、それはライト夫人だった。チャペル最奥、思わずため息が洩れそうなほど秀麗な美によって彩られたステンドグラスの下の祭壇には、船には乗り合わせていないはずの神父が立ち、夫人と同じように祈りを捧げている。やたらに恰幅のいい禿頭の彼は、すでに還暦は迎えているのだろうと確信させるに足るほどの皴をその顔に刻んでいる。しかし、木材のようにピンと伸びた背筋だけはまるで年齢を感じさせない。
「――主よ、夫を、チャールズを、どうか、お助けください」
夫人の囁きが聞こえてくる。
「私はどうなっても構いません。どうか、あの人をお助けください」
「お祈りなさい」
しわがれた神父の声はゆったりと、聞く者の心を包みこむように優しく響く。
「神は、あなたの願いを決して無下には致しません。お祈りなさい。清らかな思いは、必ずや力となることでしょう」
「――まったく、宗教というものはいつまで経っても非論理的で時代錯誤な代物ですね。祈りで人が助かるというのならば、医学という学問はここまで進歩しなかったでしょうに」
メアリは日本語で悪態をつく。絶対的な論理性を是とする学問である医学の道を進む人の中には、時に宗教を毛嫌いする者も存在するが、彼女もその類なのだろう。
声に反応してか神父はゆっくりと眼を開いた。ビー玉のように澄んだ青い瞳が柔らかく煌めく。そして彼はにっこりと微笑みを浮かべて、口を開いた。
「そう邪険にされてしまうと、神さまも時に傷つくというものだよ、お嬢さん」
日本語である。外国人特有のカタコトではあったが、神父の発したそれは確かに日本語だった。
「確かに、祈ることで人の病気が治るという機会は、そう多くはないかもしれないね。だけれど、祈ることで、怒りや悲しみや不安などの感情に支配された人の心が、わずかにでも穏やかになれるというのであれば、それは確かな救済であって、決して無駄なことではないと思うのだが、どうかな?」
メアリはどこか不貞腐れたようにそっぽを向いてだんまりを決めこんでいる。
「日本語が、話せるのですか?」
私は訊いた。こうして話しているんだから話せるに決まっているでしょう、というお約束のツッコミが横から飛んできたがこの際無視した。
「ええ。もう何十年も前のことになりますが、長崎の教会にいたことがありましてね」
「なるほど。ところで、この船は神父さまを雇ってはいなかったと思うのですが――」
神父はゆったり頷く。
「ええ、ええ。その通りですとも、ドクター。私はただの通りすがりの神父にすぎません。私は神父として世界各地の教会を回った後に、今年、インドネシアでその役目を無事に終えることができました。いや、善行とは積むものですね。役目を終えた私に、現地の信者の方々が労いの船旅をプレゼントしてくださったのです」
「神父さまは、おひとりで?」
神父はゆるりと首を振る。
「信者の方たちと一緒に五人で船旅を楽しんでおります。ここにきたのは、ええ、長年の習慣とは恐ろしいものですね、神父としての役目を終えても、必ず一日に数度は神父服に身を包んで祈りを捧げなくては気持ちが落ち着かなくなってしまいましてね。それでチャペルにきてみたら、ご婦人が熱心にお祈りをされているので、つい、出すぎた真似をしてしまいました」
そういって恭しく頭をさげられれば逆にこちらが恐縮してしまうというものである。
「いえ。特に問題があるわけではないのですけどね」
「ところでドクター」
「あ、はい」
「こちらのご婦人は、旦那さまがご病気でいらっしゃるとか」
「ええ、厳密な検査はまだですが、アルコールによる膵炎ではないかと――」
「こうしてご婦人がお祈りにくるということは、お悪いのでしょうな」
「そうですね――」
神父はその長い睫毛をおろすと胸の前で十字を切って、両手を組む。
「さぞや不安でしょうね。旦那さまも、このご婦人も。その不安が少しでも取り除かれるよう、私も共に祈りましょう。旦那さまが無事にこの船からおりて、きちんとした治療が受けれるよう、また、この船に乗る全ての人々が無事に旅を終えれるよう――」
不意に神父は顔をあげた。
「ドクター、この船には現在何人の人が乗っているのですか?」
「ええと、乗務員五八名、乗客が十二名で合計――」
「七十名ですね。では、その方たち全ての無事を祈って――」
そうして神父が再びまぶたを閉じてうつむいた時である。
「ああ」
と、メアリの感嘆のような、感極まった吐息が耳に届く。
「どうしたの?」
私が問うと、メアリは横目に私を見て、わずかに、口角をあげる。その表情から、嬉しいのだろう、という直感はできても、その理由までは推測できなかった。
「いえ。ただちょっと、神の啓示があっただけですよ」
宗教を前時代的と切って捨てた少女の口からそんな言葉が飛び出れば、神の僕たる神父は祈りを中断してでも顔をあげざるを得ないだろう。しかし、彼がメアリの言葉の真意を問おうと口を開きかけた時すでに、彼女は身を翻していた。
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