毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。10

 少し物足りない感じが残る八分のお腹をさすりながら食堂を出た。例の如く一服のためにドリンクコーナーに立ち寄るが、今回はそこにメアリの姿はない。財布を開き硬貨を探り投入口に落とす。その一連の動作を機械的にこなしながら私は、メアリに会うためにはどこへいくべきなのかを考えていた。私は、彼女がどこに泊まっているのかすら知らなかったのだ。

 まさかひとつひとつ客室をノックして回るわけにもいかないので、とりあえず彼女と初めて出会ったデッキへとあがっていくことにする。階段の遥か上方から、たっぷりと潮を吸いこんだ湿った風が吹きこみ、私の鼻をむずむずさせた。

 幾多の雲が行進する空は青と白とがまだら状に入り混じっていた。そのせいでお天道さまも顔を出したり隠したりで、今ひとつ落ちつきのない、パッとしない天気だった。海は風に煽られて、祭の最中の人波のように無秩序に暴れ狂っている。波が船体にぶつかって高く弾ける。その、水飛沫を一身に受ける場所に、人影があった。

 メアリではない。

 それは先ほど、不幸にも新婚旅行中に浮気を暴露されたあの新婦の姿だった。飛沫をもろに受けても彼女は微動すらせず、デッキの手すりに肘をついて遥か後方を見遣っていた。

「風邪をひきますよ」

 私は彼女の背に声をかける。彼女は肩越しにちらとこちらを見、すぐにまた視線を船の外へと投じた。

「もし具合を悪くしても、彼はもう心配してくれないのかしら?」

 私は思わず吹き出しそうになった口元に手を当て押し留めた。いったいどこの海外ドラマのセリフかと思った。どうやら彼女は今、少女チックなセンチメンタルに浸っているらしい。

「あれから旦那さんとお話はされたのですか?」

 彼女が緩慢に頭を振った。濡れた髪が重々しく揺れる。

「だって、彼、追いかけてきてもくれなかった」

「落ちつく時間が必要なのでしょう」

「でも、私だけが悪いんじゃないのに」

「どういうことです?」

 そう問うと、彼女は再び肩越しにこちらを見た。

「彼、ちょっと固すぎるのよ。そりゃあ、彼は私と違って、あんまり裕福じゃない家庭の出で、それで特待生になって私と同じ一流大学に通ってたくらいだから、真面目なのはわかるわよ。私だって、そんな彼のことは尊敬しているし、素敵だと思うわ。でも、度がすぎるのよ。なによ、今時、婚前交渉はしないって、どういうことなの?」

 それは確かに、現代の若者からすれば固い倫理観に映るのかもしれない、と私は思う。

「いつもだったら、彼は私がお願いすれば、なんだかんだいいながらも最後には折れてくれるのよ? さっきだって、あなたたちさえこなければ、今頃はバーで彼と一緒に美味しい飲み物を楽しんでいたはずなのに」

 彼女の恨みがましい視線に射られて、私は自分が悪いわけではないと確信しているはずなのに、妙な居心地の悪さを感じて眼を逸らす。

「でも、そんな彼も、婚前のセックスだけは絶対に首を縦に振らなかったの。私がどんなに頼んでも。泣いても。罵っても。固すぎなのよ。好きな人と一緒にいて、一緒にすごしているっていうのに、肌を触れ合わせることができないって、まるで拷問じゃない。そうでしょう?――女にだって性欲はあるわ。溜まっていくわ。でも、それがグラスから溢れるほどに溜まっても、彼がそれを飲み干してくれなかったとしたら、それはいったいどう処理すればいいというの? 他の人に飲み干してもらう他にないじゃないの!」

 その飛躍する論理に私は頭痛がしてきた。

「――そのう、自分で処理すればいいのでは?」

「はあ?」

 彼女は、UMAでも発見したかのように瞠目し、それから、呆れかえるという形容のぴたり当てはまる表情になって嘆息した。

「そんなこと、誰からも相手にされないような下層階級の浅ましい人間がすることでしょう? 私には寄ってくる相手なんて腐るほどいるんだから、わざわざそんなみじめなことをする理由なんてどこにもないわ」

 私は白旗をあげたい気分になった。互いの思考があまりにも根本的なところから違いすぎていて、話せば話すだけ頭痛が増していく一方なのだ。

「ともかく、よ」

 彼女は強い口調でいった。

「これでわかっていただけたと思うの。私だけが悪いんじゃない、彼にだって非があるという事実が」

「えっと――」

 なんといえばいいのやら、と私はわずかに考え、半ば開き直りながらもようやく言葉を発した。

「まあ、お互いさまってやつでしょうかね、あはは」

「ほんとよ。それなのに、彼ったら、自分だけが傷つけられたかのような顔して――、追いかけてきてもくれないなんて」

 彼女は、先ほどまで不満を爆発させていたのが嘘のようにしょんぼりとして見せて、再び船の外へと視線を向けた。

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