毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。6

 翌朝、食事を終えてドリンクコーナーへ足を運ぶと、そこには昨日と同じようにメアリの姿があった。彼女は自販機から少し離れたところで壁に背をつけ腕を組み立っている。私が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

「ああ、あなたですか。おはようございます」

「おはよう。どうしたの? こんなところで」

 メアリは無言のまま細めた眼を自販機の方へと向けた。私が身を乗り出してその視線の先を追うと、自販機のちょうど影になったあたりに二つの人影が見えた。若い男女のカップルのようだ。二人はなにやら話しこんでいるようだが、言葉までは聞き取れない。

「ああ、順番待ち?」

「もうかれこれ十五分になります」

「え、気にせずいけばいいのに」

「君子危うきに近寄らず、です」

「ええ?」

 私は身を乗り出して耳を澄ます。少しばかり声の音量はあがったが、やはり言葉は聞き取れない。問題は音量ではない、彼らの言葉があまりに早口すぎるのである。ネイティブの早い英語は生粋の日本人にはやはり厳しいものがある。

「なにか揉めてる?」

 声の感じからかろうじてその程度はわかった。

「くだらないことですよ」

 メアリがそう吐き捨てた。

「実にね」

 そういってメアリは視線を戻し、そのまままぶたを閉じた。持久戦の様相である。私はどうしようかとわずかに思案し、それから戦場へと飛びこむ決意をした。メアリの横をすり抜けた、その背中に声をかけられる。

「わざわざ面倒に首を突っこむ必要もないでしょうに。事なかれの日和見主義は日本人の専売特許じゃなかったんですか?」

「ま、まあ、そうなんだけどね。でも、あなただって早くオレンジジュースが飲みたいでしょ?」

 メアリは、できもしないことをできるといい張る子供を見るような冷めた顔をして、やれやれ、と肩をすくめた。


「あのう、どうか、されましたか」

 そう私が声を変えると、二人は同時にフレーメン反応を起こした猫のような顔をこちらに向けた。唇がやけにもぐもぐしているのは、飛び出しかけていた言葉を飲みこむためだろう。

「あ、私、ここで船医をしております。一応は乗務員ということになってますので、なにか問題がありましたら――」

「ちょっと、聞いてくださいよ!」

 拳を握り締め身を乗り出しながら、私の言葉を遮ってそう叫んだのは、肩まで伸びたゆるふわの栗毛と、吊りあがったきつい眼つきがアンバランスな、二十代中頃くらいのアジア系の女性だった。

「彼ったら、ひどいんですよう!」

「お、おい」

 彼女と同年代と思われる、同じくアジア系の、清潔感に満ちた頭髪と服装に身を固めた好青年が彼女に制止の声をかける。

「他人さまにいうことじゃないだろう」

「うるさいわね!」

 女性の叫びは今まさに牙を剥き噛みつかんとする勢いである。

「なにがあったんです?」

 私が問うと、彼女はあからさまに、よそいきの顔を作って見せて、同じ言葉を繰り返した。

「彼ったら、ひどいんですよう」

「はあ。どのようにひどいのでしょう?」

「彼ったら、私にここのジュースを飲ませようとするんです」

「はあ?」

 彼女の言葉の意味が理解できないのは、私の英語能力が低いせいなのかと一瞬戸惑ったが、すぐに、どうやらそういうわけでもないらしいとわかった。

「上にいけばバーでもっとおいしい飲み物が飲めるのに、わざわざここの安物を飲ませようとするの! ひどいと思いません?」

「少しは節約しなきゃ駄目だよ。昨日だけでいったいいくら浪費したと思っているんだい?」

「そんなけちくさいこといわないでよ! せっかくの新婚旅行だっていうのに、なんでそんな我慢をしなくちゃならないの?」

「いいかい。ぼくたちは両親の反対を押し切って結婚したんだよ。これから、ぼくたちの収入だけで生きていかなくちゃならないんだ。本当は、この旅行だってする余裕もないほどなんだよ。でも、きみがどうしてもというから――」

「なによ。あたしが悪いっていうの?」

「そうじゃないよ」

「そういってるじゃない! 結婚をしたら、新婚旅行をするって、普通のことでしょ? あたしはそんな普通のこともしちゃいけないっていうの?」

「だから、こうして旅行にきているんじゃないか」

「なら、細かいことでいちいち水を差すのを止めてよ! あたしだってこんなちっちゃな船で我慢してやってるんだから!」

 互いに感情ばかりが先走って論理的とは到底いえない会話からわかったことは、この新婚夫婦は、根本的な部分で価値観が違うということだ。特に金銭感覚。旦那の方は地に足のついた堅実派で、妻の方は、おそらくは元々いいところのお嬢さまなのだろう、奔放な人間で我慢というものを知らないのだ。

 それから二人は最初から私などいなかったかのように激しい口論を交わし始めた。彼女の方は頭に血がのぼると、なにかを口にするたびにいちいちオーバーな身振り手振りを加える癖があるようで、私や彼はその手にぶたれないように若干距離をとる必要があった。

 ――君子危うきに近寄らず。

 なるほど、まったくメアリのいった通りである。

「いった通りでしょう?」

「おぉう」

 いつの間にかすぐ傍に立っていたメアリに吃驚し、わずかにのけ反った。そんな私を、メアリは冷めた眼差しでじっと見つめた。

「まったく、あなたをたった一パーセントでも信じた三分前のわたしを罵倒してやりたい気分ですよ。絡まった糸を解きにいって、余計にこんがらがらせてどうするんです」

「め、面目ないです」

「これならさっさと自分でけりをつけた方がいいです」

「どうするの?」

「こうします」

 そういうと、メアリはわざとらしく咳払いをしてから一歩踏み出して戦争域に突入した。

「お二方」

 二人が同時にメアリを見る。こういうところはさすが夫婦らしく息もぴったりである。

「それほどまでに互いに不満があるのでしたら、さっさと別れてしまってはいかがでしょう」

 新婚旅行中の夫婦にぶつけるにはあんまりにもあんまりな言葉である。二人はぽかんと大口を開けた呆けた顔を見合わせている。

「どうせ長続きしませんよ。あなた方」

「いきなり、なんなのよ、この子――!」

「ぼくたちは愛し合って――」

 子供に愛を否定されたならば逆上もまあ止む無しであろう。だが、メアリは反論を許さない。

「残念ながら金銭感覚の相違というものは、結婚においては人種の違い以上にわかりあえないものです。長続きしない理由はそれだけじゃありませんよ。旦那さんは奥さんを愛しているという。でも、奥さんの方は、どうやらそうではないようですよ。奥さんは浮気をしています」

「はぁっ?」

 女性の声は完全に裏返って鳥の鳴き声のようだった。

「ふざけるんじゃないわよ! あ、あたしが、なんで――」

「浮気をしているって、どういうことだ?」

「あなた、こんな子供のいったことを真に受けるの?」

「その子供のいったことにひどく動揺して取り乱しているのはいったい誰なんだい?」

「あたしは取り乱してなんか――」

 また二人だけの口論が展開しようというところで、メアリが鋭く割って入った。

「奥さまの二の腕をご覧ください。そう、その不健康そうな色の抜けた腕ですよ」

 ひと言余計である。

「そこに小さく盛りあがったぶつぶつがありますね? それは丘疹といって、梅毒二期の症状のひとつなのです。ですよね、お医者さま?」

 メアリが振り返る。

「え、ええ。確かに梅毒二期の症状として、バラ疹の後には丘疹が出るけれど――」

 私の答えに満足したように彼女は言葉を最後まで聞かずにまた向き直って、

「あ、梅毒って知ってます? 性感染症です。見たところ旦那さまには症状が出ていないようですから、奥さまがどこからか拾ってきたということになりますね」

 こう結論づけてメアリはようやく口を閉ざした。私もそうだが、夫婦もまた完全に言葉を失くしてしまっている。顔を真っ赤にしてプルプルと震える妻と、数十秒前に愛しているといった妻を疑わしい視線で見つめる夫とが、先ほどとは違った意味で二人だけの世界を作り出している。やがて、長い沈黙を経て妻が無言でその場を立ち去っていった。夫は彼女を追わなかった。生気のない瞳で私たちを見て、軽く頭をさげてから、妻とは別の方向へと歩いていった。

 それを見送った後でメアリが満足気にいった。

「絡まった糸は、ちょん切ってしまうに限ります」

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