毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。5

 医務室に静寂が戻った。すっかり落ち着いたシェソンは白いシーツにくるまれて薄い胸を上下させている。ホーはベッドサイドに引きずってきた椅子に腰をおろして我が子の髪をゆっくりと撫でる。そんな二人を残して医務室を出た私とメアリは、隣室に引きこもっていた。

「単純に考えるならば――」

 私のベッドにちょこんと腰をおろしたメアリがいった。

「原因は脳にあるのでしょうが」

「髄膜炎?」

 パッと思い浮かんだ、馴染みの深い病名を口にすると、メアリは露骨に嫌な顔をして、そしてやはり、深く息を吐き捨てた。

「彼女の体温は、どうでしたっけ?」

「正常――いえ、むしろ少し低いぐらいでした、はい」

 髄膜炎ならば高熱が出る。

「その通りです。同じ理由で脳炎でもないでしょう。外傷はどうです?」

「頭部に外傷はなかった。脳腫瘍は?」

「少し若すぎますね。他に考えられるとすれば、先天性、遺伝性の疾患――」

「ホーさんに病歴を訊いてみます」

「脳動静脈奇形、プリオン」

「脳の画像を撮りましょう」

「ここに設備があるのですか?」

「ええ。MRIはないけれどひと通りはね」

「見た目は安っぽい船のくせして、なかなか大したものですね」

「あはは」

 私は空笑いする他ない。

「ちょっと喉渇いたかな。なにか飲む? あ、でも今ジュース切らしてて、コーヒーか水くらいしかないんだけど」

 私がそういうと、メアリは腕を組み、足を組み、眼を閉じて、なにやら考えこむようにゆらゆらと躰を揺らし始めた。メトロノームのように規則正しいその揺れを眼で追う。やがて、彼女はぴたりと動きを止めてベットからおりた。そして歩き出す。

「あ、ちょっと、どこいくの?」

 メアリは私の声などは当たり前のように無視して部屋から出ていってしまう。仕方なく後を追う。廊下に出るとメアリの姿はすでにない。だがすぐ隣のドアが開いていたのでいき先に迷うことはない。医務室に入ると、今まさにメアリがベッドスペースの閉ざされたカーテンを開け放とうという場面だった。

「少し、質問を」

 メアリの急襲に眼を点にしたホーが口をパクパクさせながらもなんとか頷いた。

「そこのペットボトルは、あなたが持ちこんだものですね?」

「ああ、そうだけど」

「娘さんに飲ませるために」

「ああ」

「中身は、水ですね」

「ああ」

「娘さんは普段からよく水を飲まれるのですか?」

「いったい、なんだというんだい」

「飲まれるんですね。病人の差し入れに甘いお菓子でもフルーツでもなく、わざわざ無味無臭の水を持ってくるのですから、あなたは普段から彼女が好んで水を飲んでいると知っている」

「別に、好んでいたわけじゃない」

 彼はわずかに言葉を詰まらせた。

「それが、うちの方針なんだ。甘いものは、なるべく、控えるようにと」

「なるほど。子供の欲するがままに与えるだけが愛情ではないと理解できていることに対しては、まあ、素晴らしいと褒めておきましょう」

「それで、いったいなんだというんだい――まさか、私がこの水に毒を入れたとでも?」

 いいえ、とメアリは首を振る。

「ですが、発作の原因はあなたにありました」

「どういうこと?」

 私が問う。メアリは肩越しに私を見る。

「血液検査をすればわかります」

「なにを調べるの?」

「ナトリウム濃度です」

 その意味するところを、私はきっかり一秒考えて思いつく。

「あ、低ナトリウム血症を疑ってる? それなら確かに発作の説明がつく」

「微妙な間がありましたが、まあ、及第点ですね。その通りです」

 自分より二十近くも年下の少女の褒められるというのは、中々妙な気持にさせられるものである。

「昨夜、彼女は大量に吐いたでしょう。それにより体液中のナトリウムが失われたのです」

「でも、私はきちんと輸液を行って――」

 はい、とメアリは頷く。

「あなたのミスではありません。残念なことにね。原因は、父親のあなたが、彼女に水を飲ませたことによるものだったのです」

「ど、どういうことなんだ?」

 愛する娘の発作の原因が、自分が飲ませた水にあるといわれては、よほどの冷血漢でない限りは狼狽する他はないだろう。彼とて例外ではない。

「低ナトリウム血症は、体液に含まれるナトリウムが少なすぎることが原因で発症します。重度の下痢、嘔吐、そして出血などを起こすとナトリウムが失われます。そこへ、減った体液を補うために、ナトリウムを含まない、水分だけが補充されると、体内のナトリウム濃度が低下して、低ナトリウム血症になるというわけです」

 メアリは早口でそう告げるが、ホーにとってはそれは魔法の言葉だったらしく、困惑の表情を隠せない。

「えっと、少しわかりやすく説明しますと」

 私は助け舟を出す。

「塩水です。グラスに注がれた塩水をこぼしてしまった時、その減った分を補おうとして水を入れると、塩と水の割合が変化してしまいますね。つまり塩――ナトリウムの濃度が低下するわけです。そしてそれが、人間にとってはとても良くないのです」

 なるほど、とホーが真剣な面持ちで頷く。

「しかし、ただ水を飲ませた、それだけのことで、まさかあれほどの発作が起きてしまうとは――」

 にわかには考え難い。それには私も同意見だった。

「ええ」

 そしてメアリも。

「確かに通常では考えられないことです」

 が、彼女はすぐに二の句を継ぐ。

「ですが、彼女の場合は、大量に吐いた後で心身ともに衰弱していましたし、それに、普段からよく水を飲んでいたという。それで元々体内のナトリウム濃度が低下していたところに、今回のがきっかけとなって発症したと考えられます」

 そういうとメアリは振り返り私を見あげて、血液検査を、と告げてそのまま医務室を後にした。


 深夜。私は眼を覚ました。自室と医務室とを隔てる、薄い壁の向こうから、入りの悪いラジオから流れるような不鮮明な声が聞こえてくる。耳を澄ます。聞き取れない言葉は意味を成さない。私はベッドからおりて部屋を出た。廊下に充満したひんやりとした夜気が頬を撫でる。医務室のドアをわずかに開くと、ラジオの感度が良くなって言葉が鮮明に聞き取れるようになった。

「大丈夫だ。シェソン、大丈夫だ」

 それは娘を励ます父の声。

「もうすぐ、日本だ。日本にいけるんだぞ、シェソン。お母さんの国だ。もうすぐだぞ」

 そうか、あの親子は母親に会いに日本へいくのか。寝ぼけ眼をこすりながら私はそう合点すると、そっとドアを閉じて自室へと戻っていった。

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