毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。2

 プリンセス・ビクトリアス号は乗客定員一六四名、乗務員数五八名ほどの中型クルーズ船である。日本とシンガポールとを五泊六日で結ぶ定期ツアーは、高すぎないそこそこの値段設定のおかげでそこそこの人気があるが、今回は時期的な問題と、キャンセルが相次いだせいで、最終的に十二名しか乗客が集まらなかった。完全に赤字である。

 が、それは私にはなんら関係がないことだ。私は船医として乗船しているだけで、旅行会社の従業員というわけではないのである。結んだ契約も今回のクルーズで最後だから、その分のサラリーさえきちんといただければなにも文句はない。

 私は半年前までとある総合病院で小児科医として働いていた。病院を辞めたのは、リストラにあったからというわけではなく、別の教育病院の教授である私の恩師から一緒に働かないかと声をかけられたからである。新しく総合診療科を設立するにあたって優秀な医師にだけ声をかけているのだと聞かされたら、私に断る術はない。それからすぐに病院を辞めて船医を志願し短期契約の募集に応募した。恩師の元で働く前にできる限りスキルアップしておきたかったからだ。船医は、海の上に浮かぶ密室の中で起こる様々な病気や怪我に臨機応変に対応する必要がある。船医は、医師としての総合的なスキルを磨くために持ってこいなのである。

 私はこの半年ですっかりと身に馴染んだベッドで眼を覚ました。寝室は医務室のすぐ隣にある。わずか三帖ほどの狭い部屋に窓はない。常に薄暗い部屋には固いベッドと、こぢんまりとした椅子と机、ところどころ塗装の剥げたタンスと棚、缶ジュースがやっと五本入る程度の小さな冷蔵庫がひとつずつ。私物として持ちこんだものは日程分の衣類と数冊の医学書、それに携帯電話くらいしかない。

 部屋を出て廊下を挟んだ向こう側の洗面所で顔を洗い簡単に髪を整える。それから医務室へと入った。充実の設備が整った医務室はやたらに広い。手前に診察スペースがあり、奥にはベッドがずらりと並んでいる。私の部屋とは反対側の壁にある扉は検査室へと続く。病院内で使用される主な検査機具のほとんどが揃っているが、さすがにMRI装置はない。

 大股で部屋を進み、ひとつだけカーテンで仕切られたベッドスペースを覗きこんだ。輸液パックと管で結ばれたシェソンが穏やかな寝息を立てている。昨夜、血液混じりの嘔吐をした彼女はここへ運ばれてすぐに呼吸困難に陥った。大量の吐瀉物と血液とが気管へと流れこみ息を詰まらせたのである。すぐに吸引し挿管を行いその後容態は安定したが、出血の原因はいまだに不明である。出血箇所を探るための内視鏡検査を行うには、シェソンの体力回復を待たねばならない。

「早く原因を突き止めないと」

 決意も新たに医務室を後にした。

「なにはともあれ、朝ごはん」

 毎日決まった時間に、そうでなくても注文すれば部屋まで食事が運ばれてくる乗客とは違い、一応は船員の一員である私は専用の食堂まで足を運ばなければ食事にはありつけない。私は複雑な構造の船内を歩き始めた。


 食事を終えて一服しようとドリンクコーナーへと立ち寄った私は妙な光景を目の当たりにした。昨夜のあの、美しいお人形の容姿に不釣り合いな毒舌の少女が膝をついて、さらさらの髪を床に垂らしながら、日本製の自販機と床とのわずかな隙間に手を突っこんでいたのである。渋い顔をしている彼女と眼が合う。

「なにか」

 明らかにご機嫌斜めの声色である。

「えっと、なにしているの?」

 やはりというべきか、少女は深いため息をついて見せた。体勢はそのままで、だ。

「見てわかることをいちいち訊かないでください。お金を落としてしまったんですよ。いったいそれ以外のなんの理由があって、自動販売機の下になど手を突っこむ酔狂な輩がいるというんです」

「ああ、案外、どじなんだ」

 自然と口をついた言葉に、少女はさっと顔を赤くする。それからすっくと立ちあがると、すまし顔で服についた埃を払い始めた。

「もういいの?」

「たった百円程度で大騒ぎするほど子供じゃありませんので」

 少女はやれやれと肩をすくめた。

「結構必死に見えたけど」

 少女は言葉を詰まらせて、

「あなたの眼は、そう、節穴ですからね。だから、そう見えたのでしょうね」

 と、そういう。

 私は少しばかり愉快な気分になってきた。昨晩に散々いわれた相手を逆に手玉に取るというのは中々楽しいものである。とはいえ、残念ながら私には年端もゆかぬ幼女をいじめる趣味はない。愉快な気分もすぐに萎んで代わりに憐憫の情が浮かんできた。

 私は財布を取り出して硬貨を投入すると、

「なにが欲しかったの?」

 と少女に問う。彼女は上目遣いに私を見る。

「他人から施しは受けません」

 その瞳から受ける意思は固そうだ。

「まあまあ、もうお金入れちゃったし、遠慮せずにね。とりあえずコーヒーでいい? ブラック?」 

「苦いのは嫌です」

「じゃ、コーラ?」

「砂糖がたっぷり入ってるのも嫌です」

「あ、見て。ノンシュガーのサイダーがあるよ」

「それただの炭酸水ですよね」

 そうして少女は、すっかりおなじみとなった深いため息をついて見せるのであった。

「百パーセントのオレンジジュースをお願いします」

 はいはい、とボタンを押す私の背中に、ありがとうございます、という蚊の鳴くような小さな声がぶつかったが、私は聞かないふりをした。

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