こどものおいしゃさん。

森谷祐二

毒舌系金髪幼女はオレンジジュースがお好き。1

 その娘は、後方デッキの手すりにそっと寄りかかって、頭上に浮かんだ大きな円い月を見あげていた。出港して最初の夜、風のない海は穏やかに呼吸し、豪華というほどはないが、それなりには見栄えのする中型クルーザーを揺らしている。

「危ないよ」

 私の声に、その娘は視線を落とした。彼女の腰まで届く長い金色の髪が、月明かりに宝石のような輝きを発しながら、さらさらと音を立てるように揺れる。

「あなた、ひとりなの?」

 そう問うと、彼女は、その形良く整った眉を歪めて、左右に視線を振る。それから、私に視線を戻すと、わずかに小首をかしげて見せた。

 私は彼女を指さす。そうして、沈黙が訪れた。彼女は薄い唇を固く結んだまま、その青い瞳で私を射る。射すくめられた私は動くに動けなくなってしまう。やがて、駆ける潮風にくすぐられて、むずむずとなった鼻をかばうように手で覆うと、それが合図になったかのように、ようやく彼女は口を開いた。

「あなたには」

 まったく見た目通りの、十歳前後だろう幼い声である。

「わたしがひとりでないように見えるのですか。もしそうなら、眼科、いえ、精神科で診てもらうことをおすすめしますね」

 その可愛らしい外見から予想だにしない、あまりにもな毒舌に、私はただ唖然とする他ない。

「えっと、あの、そうじゃなくて」

 なんとか声を絞り出すが、彼女はそれを遮るように言葉を発する。

「そうじゃないのなら、先ほどの質問は実にナンセンスだと思うのですが。ああ、それとも、もしかしてわたしが聞き間違えただけなのでしょうか。申し訳ありません。あなたの英語が少々、いえ、かなり下手で、実に聞き取りづらいものでして」

 ネイティブの美しい発音で、実に失礼なことをいわれたが、自分の英語力の低さは痛いくらいに自覚するところなので、反論のしようもない。

「あ、あいむ、じゃぱにーず」

「オー、ジャパニーズ?」

 彼女はあからさまなカタカナ発音でそういうと、開いた唇にそっと指を当てて軽く首を傾げた。

「なるほど。日本人。それならこの英語力の低さも納得ですね」

 と、呟いた。私は顔いっぱいに熱が広がっていくのを感じた。その熱の原因は決して怒りによるものではない。私の心の底から湧きあがってきたものは、羞恥の念である。私は、彼女の顔を見続けるのに非情な居心地の悪さを感じて、肩を丸めながら視線を足元へと落とした。

「それなら、日本語で話していただいても結構ですよ」

 久しぶりに耳にした日本語にハッとして、私は再び彼女に視線を向けた。

「あなた、日本語が話せるの?」

 その質問に、彼女はため息をついて応えた。

「あなたには、今のわたしの言葉が日本語に聞こえませんでしたか? これでも日本語の発音には少し自信があったのですが」

 確かに彼女の日本語は、多くの外国人に見られるあの独特の発音の癖がなく、非常に流暢なものだった。

「ああ、もしかして耳がお悪い? 耳鼻科にいきます? それともやっぱり精神科?」

 母国語で浴びる毒舌は外国語で浴びるそれよりもダメージが大きい。しかも相手は、こんな年端もゆかぬ幼女なのだ。私は今度こそはさすがに怒りを覚えた。なぜ、自分がこんなことをいわれなければならないのかという、恨みがましい思いが溢れた。けれども、自分がいい歳をした大人であることを防波堤にして、なんとか決壊だけは食い止めた。が――、

「あなたの質問は、いちいちナンセンスなのですよ。回りくどい。わかり切っていることをわざわざ訊くというのには、いったい、どういう意味があるというのでしょう。それが、日本人というものなのですか?」

 彼女の言葉はマシンガンの如くまったく切れ間がない。ちくちくと続けざまに防波堤に穴を開けていく。そうして、いよいよ決壊が危ぶまれた時になって、ぴたりと、不意に電源が落ちた機械のように、彼女はその口を閉ざしたのである。

 気勢を削がれて困惑する。潮風が頬を撫でた。火照った肌に冷や水をかけられて、私は、つい先ほどまでの怒りという感情を冷静に突きつけられて急に恥ずかしくなった。沈黙が、彼女からの、大人げない私への糾弾であるかのように思えて、私は口を開こうとした。しかし、彼女は唇にピンと立てた人差し指を立ててそれを制した。

 耳を澄ました。波。風。エンジンの低く唸る音。そして、階段をあがる足音があった。

 肩越しに振り返る。私のちょうど真後ろの方には、客室エリアへと繋がる階段がある。その奥の、ぼうっとした光の中に、頭がひとつ、にょっきりと生えてきた。そして、いくつかの足音を重ねてもうひとつ。大小の人影は、やがて、階段をのぼり切りデッキへと出て、月明かりのスポットライトの下にその姿を現した。

 大きい人影は五十代前後の男性だ。髪は薄く、まばらで、デッキにあがった瞬間に吹かれた風にかき乱されて、悲惨な状態になってしまっている。猫背気味の中肉中背の躰に纏った茶色のスーツはサイズが合っておらず少々だぶついている。

 小さい人影は、毒舌の少女と同じ年頃だろう、黒い短髪に、小麦の肌、東南アジア系らしい彫りの深い顔立ちをした少女である。彼女は、薄いブルーを基調とした簡素なワンピースを身に纏っていた。

 男は、デッキに私たち先客の姿を認めると、少々、気まずそうな顔をして頷くようにお辞儀をした。

「いやあ、これはどうも、夜分遅くに。ちょっと夜風にあたろうと思いましてね」

 男の声は通りが悪く、くぐもったように聞こえた。

「お嬢さんが船酔いにでも?」

「ええ、まあ。少し、調子が、悪いようで」

 男は切れ切れにそういう。こちらに近づいてくる足取りもどこか重たげだ。

「ホーです」

 私の前までくると彼はそう名乗り、ズボンで拭った手を差し出してきた。

「ご丁寧に」

「こっちは、娘のシェソン」

 紹介された彼女はぺこりと頭をさげたが、その視線はずっと、私の後ろに向けられていた。ふと振り返り見ると、例の毒舌少女が私のすぐ後ろまできていた。私は向き直り、シェソンと視線を合わせるように膝を折る。それからできる限りの優しい口調で話しかけた。

「こんばんは。船酔いしちゃった?」

 シェソンがなにか答えるよりも早く、どうしてあなたはそうわかり切ったことばかり訊くんでしょう、まったくナンセンスです、という声が背後から聞こえてきたが無視した。

 シェソンが頷いたのを見て、私も同じように頷いた。

「酔い止めを持っているからあげるね。水がなくても大丈夫なやつだから」

「すみません、ご迷惑を」

 ホーが恐縮したように肩をすぼめた。

「いえいえ。これも仕事でしてね。ああ、申し遅れましたが私は――」

 名乗ろうとした、その時である。ふっ、と、蝋燭の火が消えたかのように急に闇がおりて視界を封じられた。雲が月にかかったのだろう。

 ――と、

「げほ、げほっ」

 咽る声があった。シェソンだ。それは次第に激しさを増しすぐに尋常の様子ではなくなる。ホーは慌てて身を屈めると娘の背中をさすり始めた。

「ごほっ、うっ、げほっ」

 シェソンの咳きこみは強くなる一方である。

「これは――」

 後ろから、囁くような声があって、

「げぼっ!」

 ついにシェソンは口から液状のものを盛大に吐き出した。正面にいた私はそれをもろにかぶる。

「ぉえ、ご、ごめんなさ、げほっ」

「気にしないで。大丈夫。落ちついて、ね」

 いうが早いか、シェソンはぐらりと躰のバランスを崩して前のめりに倒れてきた。とっさに抱きとめる。

 私は困惑した。船酔いで、嘔吐して、気を失った?――その因果関係がすぐには一本で繋がらない。

「ただの嘔吐じゃありません」

 背後から声がぶつかった。暗闇の中を私は振り返る。少女の青い瞳が、キラリと光を放った――ような気がしたが、気のせいかもしれない。

「あなたは眼と耳だけじゃなく、鼻もお悪いのですね。この刺激的な鉄のにおいに気づかないとは」

 私は荒い呼吸を繰り返すシェソンを抱きかかえたまま、もぞもぞと手を動かして先ほどかぶった液状のものに触れる。ぬめりとした感触と生温い熱も新鮮なままでその手を鼻先へと持っていく。

 それには間違いようもない、確かな、血のにおいが混じっていた。

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