駆け巡る
「ここで……?」
僕は、誰もいない夜の競馬場のスタンドにとどまるどころか、ここで話をしたいと言う青柳さんに、思わず聞き返した。
『ここじゃなきゃ、ダメなんです』
「どうして……」
『ここが、私が黒木さんと初めて会った場所だから』
僕がその文字を読み終えるが早いが、今度は青柳さんが僕の手をとる。僕の手よりずっと小さくて華奢な手が、僕の手をぎゅっと包み込んだ。青柳さんの手に力がこもる。この状況は、まるで土曜日の別れ際に唐突にキスをされたときのようだったが、そのときひんやりとしていた青柳さんの手は、今はずっと熱かった。
「あの……ええと……」
僕を見つめる目。ちょっと吊り目で、気が強そうに見える目。でも、週末の間だけだが彼女の人柄に触れた僕は、彼女が明るくて、ちょっと臆病なところもあって、ときどきものすごく大胆な、優しい女性だとわかっていた。
自然とその視線に力を持たせるような少し派手で彫りの深い顔だって、初めて会ったときよりずっと、僕には穏やかに見える。でもその穏やかさの奥に彼女の強さというか、芯の強さというか、そういうものも見えるような。
「あ……」
瞬間に、僕は彼女の目に、強烈な既視感を覚えた。
土日にずっと見てきたからとか、そういう感覚ではない。もっと、ずっと前から、僕は彼女を。
「君は……」
だが、僕が言おうとするその前に、青柳さんが握っていた僕の手を引き寄せて。彼女の顔がぐっと近づいて来る。さらさらと夜風に流れる前髪が、僕の額に当たった。
重なった唇の感触は、柔らかくて少し湿っていた。
どのくらい僕らはキスしていたのだろう。きっと数秒だったのだと思う。が、僕には時間が止まったように思えた。
やがてゆっくりと僕から唇を離した青柳さんは、照れくさそうに、でも、どこか悲しそうに笑った。その顔はもう、さっきのキスをする前の、穏やかだが強い目で僕を見つめる顔ではなく、土日に一緒に過ごした女性の顔に戻っていたが、僕はさっき感じた既視感にまだとらわれていた。
が、それをうまく言えない僕が黙って彼女を見つめていると、彼女は口を開いた。
「黒木さん。」
僕は耳を疑った。少しかすれているが、青柳さんが声を出したのだ! でも、初めて聞いた彼女の声は、どこかくぐもって聞こえる。声が青柳さんの口から出ているのではなく、僕の耳の奥で、直接頭に響いてくるような、不思議な感覚だった。
「青柳さん、こ、声……」
青柳さんは悲しそうに笑う。
「……今、ここでなら、私、こうして黒木さんとお話できるんです。これが最後になるから、あなたに言っておきたい。」
彼女のくぐもった声は、言葉を紡ぐたびに、少しずつクリアになってきていた。思った通りの、高いけれど落ち着いた、澄んだ声だった。
「青柳さん、『最後』って……?」
「信じてもらえないかもしれませんけど……私、一度死んだんです。でも、三日間だけ、この世に戻ることを許してもらったんです。」
「え……あの、ちょっと、話が見えないんですけど……」
「ノベヤマさんが、黒木さんに会ったって言ってました。黒木さん、私に記憶がないこと、知ってるんですよね?」
ノベヤマさん。僕が昨日ちらりと会ったあの紳士は、確か身寄りのない青柳さんの身元引受人で、彼が落としたメモから、僕は青柳さんが交通事故に遭い、記憶喪失であることを知ったのだ。僕は黙って頷いた。
「黙っていてごめんなさい。でも、正確に言うと、私は『記憶喪失』じゃありません。単に『青柳はるかとして生きた記憶』を持っていないだけなんです。」
「『青柳はるかとして生きた記憶』……?」
どういうことだろう。逆を言えば、青柳さんには記憶があって、しかしそれは、「青柳はるかとして生きた記憶」ではない。つまり。
「あなたは、『青柳はるか』さん、ではない……?」
青柳さんは、いや、一度は「青柳はるか」と名乗った彼女は頷いた。
「ということは、あなたは一体誰なんですか?」
「話がややこしくてすみません。この体は、確かに青柳はるかという人間のものです。私が死んだ日に、ちょうど交通事故に遭って、植物状態になっていた……」
要するに、体は青柳さんで、心は別の誰か、ということだろうか。まるでSF小説のような話だ。
「私がこの世に戻って来たのは土曜日の朝です。もう三日が過ぎようとしています。タイムリミットは今夜なんです。もうすぐ私はこの世を去り、この体も再び眠りに就きます。
だから、私は黒木さんにずっと伝えたかったことを、伝えてから行きたいんです。」
信じがたい、というより、あまりに突飛な話に僕はついて行くのがやっとだった。彼女の話の内容は、すんなりと受け入れられるものかと言えばそうではない。でも、彼女が作り話をしているようには見えなかったし、気が変になったようにも見えない。というより、閉じているはずのゲートが開いていて、いないはずの馬の影が歩き回り、出ないはずの彼女の声が出るこの夜には、何だって起こりうるのかもしれない、と僕は思い始めていた。
それに、キスをして声を取り戻すなんて、本当にアリエルみたいじゃないか。
あり得ないこと続きの夜の奇跡に対して抱いたそんな思いが、かえって僕を冷静にしたのかもしれない。僕は今夜で最後だという悲しい告白よりも、彼女が切実に僕に伝えたがっている話を聞こうという気分になっていた。
「……それで、僕に伝えたいことって?」
ずっと取り合ったままの手に、力がこもる。
「黒木さん。もっと競馬を楽しんでください。好きな馬を見つけて応援してください。明るく、楽しく生きてください。私が最後に、あなたにお願いしたいのはこれだけです。」
「え……?」
「私、ずっとあなたを見てました。だから、あの秋華賞の後から、あなたに元気がないこともわかっていました。」
冷静だった僕の頭に、ふと混乱がやってきた。
彼女はずっと僕を見ていた。それは僕も聞かされた。プリマヴェラのデビュー戦からずっと、同じ競馬場で観戦をしていたそうだから。でも、僕が競馬場にプリマヴェラの応援のために通っていたのは、プリマヴェラが足を折って命を落とした秋華賞までの話だ。でも彼女は確かに今、「秋華賞の後から」と言った。
そんな僕の混乱を見透かしたように、彼女は僕の目をじっと見ていた。出会ったばかりのとき、その奥に熱いものが流れていることを僕に感じさせるくらい、静かな光を放っていた目。今は湖面のように静かで落ち着いた目。どんなときも前だけを見る目。今、目の前にいる僕だけを見る目……。
そんなはずはない。
僕は、ここに来てから彼女の目に対して抱いた強烈な既視感の正体に思い当たり、しかし、それこそあり得ないという気持ちに、足が震える思いだった。
「そんなはずは……」
「それから」
自分が導き出したあり得ない結論に、ただただ立ち尽くすしかない僕の手を、彼女は引き寄せる。彼女は頭を垂れ、僕の胸に鼻先を押し付けた。
「私があなたにいちばん伝えたいのは、『ありがとう』なんです。」
そう言って顔を上げた彼女は、僕の手を離す。と、その途端に、僕は驚くべき光景を目にした。
彼女の体が、ぼんやりと光り始めている。秋の夜の深い闇に閉ざされたターフを背に、彼女の体はうっすらと光を放ち、その輪郭がぼやけ始める。
「黒木さん、私を見出してくれてありがとう。利益とか名誉とか、そんなもの関係ない純粋な気持ちで、私を見てくれてありがとう。競馬場であなたと会う嬉しさは、私を強くしてくれました。世界は、私が思った以上にすばらしいところなんだって、あなたは教えてくれました。だから、私の死にあなたが囚われているのを、私は見たくない……」
光の塊となった彼女の体は、徐々に形を変えていく。大きく広がり、背の高い姿になり、しなやかで細い脚が伸びる。
「君は……!」
光り輝くその姿に、僕は思わず手を伸ばす。姿を変えた、いや、本当の姿に戻った彼女も、もう蹄鉄を履いていないその軽やかな足を僕の方に踏み出し、鼻先で僕の手に触れる。
「ごめん、ごめん……」
大きな顔を、僕はかき抱いた。僕ごときの感情が、彼女に影響を与えるなんて思っていなかった。僕が、ターフの上で輝く彼女を見ていたとき、彼女も僕のことを見ていたなんて思っていなかった。あれは偶然などではなかった。折れた足をぶら下げて、彼女は僕を見ていたのだ。でも、僕はあのとき、彼女に背中を向けてしまった。涙があふれてくる。あの夏日のデビュー戦から、彼女を見続けてきた思い出が、胸の中を嵐のように駆け巡る。
「泣かないで……お願いです。」
耳の奥に響く彼女の声に、僕は袖で涙をぬぐった。それでも、後から後から流れる涙はどうしようもない。涙にぬれて、男らしさの欠片もない情けない顔を、僕は一生懸命笑顔にしようとした。
「……僕のところに来てくれて、ありがとう。君が大好きだよ、プリマヴェラ。」
僕のその言葉が、彼女にとって救いになったのだろうか。僕がそう言うと、彼女は、プリマヴェラは、すっと後ろに下がり、ターフの方へ歩き出した。
「さよなら、黒木さん。元気で……!」
少しだけ振り向いた彼女はそう言うと、速足で走り出し、ターフへの柵を飛び越えた。そのまま、生きていた頃そのままの俊足で、力強くターフを走り出す。走りながらまた僕を振り返る。
「私も、あなたが大好きです!」
耳にいつまでも残る叫びと、力強いいななきが重なる。京都競馬場の直線を駆け抜けたプリマヴェラは、スワンを象ったゴール板の前を駆け抜けると同時に、空へと飛び上がった。
天馬のように、秋の夜空を駆けまわりながら、プリマヴェラは遠ざかっていく。僕は、真っ暗な中、光を放ち、本当に黄金の風になったかのような彼女を、ずっと見つめていた。
やがて彼女の姿がどんどん小さくなり、星の中に紛れ込んで消えてしまったとき、僕の立っている場内を突風が駆け抜けた。僕は思わず目をつぶって……そのまま、目の前が真っ暗になった。
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