約束
結局僕は青柳さんとの競馬観戦二日目を、昨日と同じように他愛もない話や、競馬の話をしながら過ごした。青柳さんの馬券の調子は相変わらず好調で、僕らの話は彼女の記憶のことや声のこと、境遇のことよりも、馬の気持ちを理解する彼女の目に関するものが多かった。
また最終レースまで観戦し、僕らはまた昨日と同じようにゲートに向かう。
次の約束がしたい。
二日続けて彼女と過ごした僕は、そう思うようになっていた。
「青柳さん。」
呼びかけると、隣を歩いていた青柳さんの、僕よりちょっとだけ低いところにある目が僕を捉えた。
「よかったら、今度食事でも……」
今度は競馬場のレストランじゃなくて、もっといいお店で。
僕は言おうとしたのだが、途中で、ぬっとスマホの画面が現れる。青柳さんが、僕の言葉を遮って何かを言うのは初めてで、僕は思わず言葉を引っ込めた。
『明日、またここでお会いできませんか?』
「明日?」
明日は月曜日。ほぼ土日と祝日しか開催されない中央競馬のレースはもちろんない。京都競馬場でも平日払い戻しのサービスはしているが、月曜日に競馬場に来る意味なんて、僕のようなライトなファンにはほぼない。青柳さんだって今日当てた分の馬券は、さっき全て払い戻しをしたはずだ。
それに何より、明日僕は会社に行かなければならない。
「……すみません、明日は仕事で、夕方より前には来られないと思うんですけど……」
青柳さんは首を振りながら、急いでスマホに入力をする。
『夜でいいです。シンザンゲートの前で会えませんか?』
夜となると、土日だって競馬場は閉まっている。大きなレースの前になると、夜のうちに来て入り口前に陣取る人もいるが、レース明けの月曜の夜に、閉まった競馬場の入場門、しかも駅からちょっと離れた入場門である「シンザンゲート」の前に行くなんて。僕の頭上には「?」マークがたくさん。
「夜にですか?」
『ダメですか?』
うろたえる僕を、青柳さんは切実そうな目で見つめている。僕は考えた。
言ってみればこれは、昨日会って意気投合した女性に、今度は平日の夜、人気のない場所に呼び出されているということ。普通に考えれば、警戒すべきシチュエーションかもしれない。でも。
「……わかりました。何時に?」
ひたすら訴えかけるような目で僕を見つめる青柳さんの申し出を、僕は受け入れた。お人よしだと姉やショーさん、他の人には揶揄されるかもしれないが、僕は彼女に、何か悪意があるなんて思いたくなかった。プリマヴェラが出会わせてくれた、声を失った人魚姫に。記憶を失い、得体の知れないものとなったこの世界に迷い込んだ人魚姫に。
『何時なら、来ていただけますか?』
「そうですね……定時ちょうどに出るのは難しいので、八時とかになってしまうかもしれませんよ?」
『何時でもいいです。八時なら、来ていただけますか?』
「え、ええ……そこまで言われるなら……わかりました。来ます。」
さすがにキスはできないが、僕は青柳さんの手を取ってぎゅっと握った。笑顔になって、声を発しないまま動く青柳さんの口が「ありがとう」と言っているのが、今度はちゃんと、僕にもわかる。
「バス停まで送りますよ。」
手を握り合ったまま僕らは歩き出し、京都競馬場を後にした。
次の日、いつもなら一息入れて長めの残業で片付ける仕事が奇跡的に早く片付き、僕は憂鬱そうな目でコーヒーをすする隣の席のショーさんを尻目に、定時少し過ぎに退社した。
会社からすぐに待ち合わせに向かう事態も考えて、ちょっといいスーツとシャツを着ていたのだが、これなら一度家に帰って着替えることもできそうだ。
僕は地下鉄とバスを乗り継いで家に帰り、ちょっといい私服を着て行こうかとも思ったが、あまり気負いすぎてもよくないと思って、土日と変わらないカジュアルな(でも清潔感のある)服装で、緑の電車が停まる駅へと急いだ。
まだまだ日中は暑い日が続いていたが、十月は夜となるとさすがにちょっと冷える。駅は、薄手のコートやニットを着た観光客で混み合っていた。
淀駅に僕が着いたのは七時五十分だった。
すっかり日が短くなった秋の夜、周囲には住宅街や町工場が多い京都競馬場の前は、すっかり暗くなって人気がない。土日の賑わいが嘘のように、鉄柵に囲まれた広場や白いスタンドが、暗がりにひっそりと眠るように横たわっていた。
今日は駅から渡り廊下を行かず、階段を使って地上に降りた僕は、静まり返った競馬場の傍を線路に沿って歩いていく。途中、夜遊びの中学生数人とすれ違った以外は、誰とも会わない。首筋にほんの少しうすら寒いものを感じたのは、ひんやりと冷たさを増していく秋の夜の空気だけのためではないだろう。
暗い歩道を行くと、やがて僕はシンザンゲートの前に着いた。駅からはほんの数十秒か一分程度。それなのに、歩けば歩くほど濃くなるような秋の夜の闇に、僕はもっと長い間歩いたかのように感じていた。
腕時計は見えにくい暗さの中、携帯の液晶画面を確認すると、時刻は七時五十三分。
日曜も、待ち合わせより早く来ていた青柳さんが来てはいないかと、僕は暗いゲート前を見回したが、まだそこには誰もいない。僕はゲートの近くの壁に寄りかかり、青柳さんを待った。
それにしても、青柳さんはどうして月曜の競馬場なんかに。
彼女を疑わないと心に決めたお人よしの僕だが、しいんとした夜の闇の中、しかも広い場所でこうして一人でいると、いろいろな思いが頭の中を駆け巡る。
土日のことを考える。
気だるい朝、風に飛ばされたストール。
別れ際のキス、手をつないで歩いた場内。
始終、青柳さんが見せていた笑顔。
コツ、コツ。
ふと、通路を打つ足音を聞いた気がして、僕は顔を上げた。が、音はすぐに止む。
青柳さん、かな?
僕はシンザンゲートから駅へと向かう道の方に目をやった。が、誰も現れない。
コツ、コツ、コツ。
二度目に足音を聞いて、僕は驚いて。
まさか、こんな時間に。
振り返る。
そう、足音は、駅への道に目をやった僕の後ろ、つまり、場内から聞こえていた。
「あれ……?」
足音に振り返った僕は、奇妙な光景を目にした。足音の主は見えない。が、それより。
シンザンゲートが、開いていた。
おかしい。さっきは暗かったが、確実に格子状のシャッター、動けば確実に音がする、鉄のシャッターが下りていたはずなのに。
ゲートの奥の場内は暗く、チケットもぎりの女性もいなければ、警備員すらもいる気配がない。なのにシャッターが空いている。その光景は異様に見えた。
普通なら、ちょっと逃げ出したくなるくらいの不気味さだったかもしれない。事実、僕はもう少しで逃げ出すところだった。
でも。
こんな、何か異様な事態が起こっているともとれる場所に青柳さんが来たら。
その思いが、僕の足をその場にとどめた。
コツ、コツ、コツ、コツ。
さっきより、足音が近づく。僕は脳内に警報が鳴り響くのを聞きながら、ゲートの向こうを睨んでいた。
そして。
コツ。
「君は……」
ゲートの柱の陰から姿を現した足音の主に、僕は思わず目をこすった。暗い中、ほぼシルエットしかわからないが、そこにいる生き物の気配を僕は感じた。
引き締まったしなやかな筋肉と、美しい細い脚を持った、豊かな尾と、たてがみに風をはらませた……
僕は、いつの間にか夢でも見始めたのだろうか。
コツ、コツ、コツ、コツ……
「待ってくれ……!」
向きを変えて、歩き去ろうとするその影を、僕は夢中で追いかけて、夢中でシンザンゲートをくぐった。
「あれ……?」
確かに、今、ほんの一瞬前、ちゃんといたのに。
ゲートをくぐり、誰もいないパドック広場で、僕は辺りを見回した。ゲート越しに僕を見つめ、ゆっくりと歩いて去って行ったはずのその生き物は、どこにもいなかった。
いや、いないのが当たり前、僕が疲れて幻覚を見たのだと考える方がずっと現実的だ。僕が見たのは、見慣れた生き物の影だったが、暗闇で僕を見据えていたその気配を、僕の心は覚えていた。
なんだかとても、なじみのある気配だった。
得体の知れないものを見た恐怖より、もっと近くでその影を見たい、確かめたいという欲求が、僕の中では勝っていた。
が、やはりパドック広場には誰も、何もいない。
それにしても夜の競馬場なんて、初めて入った。不気味さと好奇心と、警備の薄さへの心配が、僕の中で奇妙にせめぎ合う。と。
コツ、コツ、コツ……
また聞こえた。
僕は辺りを見回し、足音の方向を探った。
いた!
パドックから見える、建物内の通路。馬券売り場を通り過ぎ、ターフが見えるスタンドへと向かう通路を、悠然と歩く影。僕は追いすがる。
すると、そいつは不意に走り出した。
人間の足で追いつけるはずがない。あっという間に振り切られた僕だが、諦めずにスタンドに向かった。
「あれ……」
が、スタンドに出るとやはり、影は姿をくらましていた。
これは、夢なのか?
僕は何となく、漫画で見るように自分の頬をひねった。痛い。古典的なそういう漫画によれば、これは夢ではないということになるが、「夢」と片付ける以外に説明のつかないことが起こっている。
夜の競馬場のゲートが開いていたり、僕が苦も無くそこをくぐり抜けられたり、場内を自由に歩き回る馬の影がいたり。まして、僕が見たその馬は。
カツ、カツ。
と、また足音が聞こえてきた。今度は背後から。僕は振り向いた。
「あ……」
そこにいたのは、青柳さんだった。いつものように高いヒールを履いた彼女は、寂し気な目で僕を見ていた。
僕は何てことをしたんだ。
不意に現れた馬の幻を追いかけて、何があるかもわからない、夜の競馬場に入って。きっと青柳さんは、僕より少し遅くシンザンゲートに来たのだ。それで、僕が現れず、開いたゲートをくぐって。
もしものことがあっても声を出せない彼女に、僕は危険を冒させてしまった。
「す、すみません青柳さん! 僕、うっかりしてて……すぐ、戻りましょう。」
僕は自然と、彼女の手をとっていた。もうそこに、ためらいはなかった。
が、青柳さんは静かに首を振った。
『ここでいいんです。ここで、黒木さんと話したい』
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