失われなかったもの

 ノベヤマさんと別れてから十数分後だろうか。パドック付近のベンチに座っていた僕は、こちらに向かって来る元気のいいヒールの足音を聞いた。

 高く昇って京都競馬場を照らす秋の日を受けて、きらきら輝く明るい茶色のロングヘアを、今日は花の飾りでまとめてアップにした青柳さんが、弾けんばかりの笑顔で小走りにやって来る。

 ちらと腕時計に目をやると、まだ十一時二十分だった。

「こんにちは。早いですね。」

 さっきの出来事をとりあえず頭の隅に押しやって、何でもないふうの笑顔を作った僕に、青柳さんは昨日と同じ笑顔で僕を指さす。

 黒木さんこそ。

 そう言っているのが、まるで声を聞いたかのように自然に伝わってきた。

「四レースがもうすぐスタートですけど、観ますか?」

 僕が尋ねると、青柳さんは大きく頷いた。第四レースは障害レース。普通のレースと違って、馬たちが生垣や溝を飛び越えて行く姿は見ごたえがあって、僕は嫌いではないのだが、平地競争より人気はさっぱりだ。

「青柳さんは、障害は好きなんですか?」

 スタンドに向かいながら、青柳さんはここでやっとスマホを取り出した。さすがに、ジェスチャーでずっと会話を続けるのは難しい。

『馬が走っているなら、何でも好きです』

 心の広い答えを画面に踊らせて、青柳さんはいたずらっぽく笑った。

 第四レースは特に波乱もなく、平凡な結果だった。スタート直前に来た青柳さんは馬券を買わなかったから(言うまでもなく僕も買っていない)、ゴール後に払い戻しにも行かなかった。

「青柳さん、お昼、まだですか?」

 何となく、第五レースまでの空き時間に青柳さんともっと話ができたらと思っていた僕は、彼女を食事に誘った。どうせ元から、十二時集合と聞いて、お昼を一緒に食べようと思っていたところだ。

 さすがに記憶喪失のことを単刀直入に聞くわけにはいかないが、青柳さんの主治医だか身元引受人だかのノベヤマさんも「他人と関わるのはいいこと」と言っていたし、とにかく僕は彼女と話がしたかった。

「何か、食べたいものありますか?」

 競馬場の建物の内部、とりあえず二階まで上がって、僕は青柳さんに尋ねた。

『野菜が食べたいです』

 そう答えた青柳さんは、ちょっと落ち着かない様子で、周囲に視線を泳がせていた。日曜日で少し混み合った競馬場内、しかも飲食店や、他の競馬場のレースを流すテレビに、それが良く見えるシートなどがある二階には、僕らのような若いファンと同じくらい、アルコールが入って表情のおぼつかないおじさんや、大声でテレビに映った騎手を揶揄するおじいさんなんかも多くいた。

 僕は苦笑してしまった。競馬場にいるのだから仕方ないが、女性を食事に誘っているという状況なのに。

「もうちょっと上に行きましょうか。」

 さらに上の階に向かうエスカレーターに僕が向かおうとすると、不意に後ろから、昨日も感じたちょっと冷たくて柔らかい感触が、僕の右手をとらえた。びっくりして僕が振り返ると、ちょっと不安そうな目の青柳さんが、僕の手をとってついて来ようとしているところだった。

 青柳さんは僕の目を見なかった。すぐ近くの酔っ払いを警戒するような目をして、まるで僕の手をとるのが当然のようにぴったりと寄り添ってついてくる。

 ただでさえ声の出ない彼女を記憶喪失のことで心配していた僕は、思わず鼓動が速くなるのを感じた。

 青柳さんの視線が僕の方に動いたような気がして、僕は慌てて前を向いた。平気なふうを装わないと。急に手をつないだりキスしてきたり、青柳さんは突拍子もない行動を昨日もしたが、基本的に彼女は他人に気を遣う言動が多い人のようだった。僕が落ち着かない態度でいたら、気を遣ってこの手を離してしまうかもしれない。

 至近距離で目を合わせる勇気はなかったが、僕は青柳さんの手をちょっと力を込めて握り返し、ゆっくり動くエスカレーターがつながる先をじっと見ていた。

 結局、お目当ての洋食屋に着くまで僕らは手を離すタイミングをつかめず、席に着いてやっと、僕は青柳さんと「会話」することができた。歩いている間はすっかり忘れていたが、片手では当然スマホは操作できない。

 僕は青柳さんの食べたいものを聞いて、彼女の分も注文した。ウエイトレスの女性が去ると、青柳さんはやっとヤジや罵声が聞こえないところに来て安心したのか、無邪気な笑顔で氷水を飲んだ。

「……さっきは、びっくりしましたよ。」

 僕が、ドキドキしていることを悟られないように、ちょっと困っているだけ、何ならちょっと嬉しそうに聞こえるように精一杯明るい声で言うと、青柳さんは意外にも照れたようにちょろっと舌を出して笑った。

『すみません。でも、おじさんの怒鳴り声、ちょっと怖いんです』

『競馬場には慣れたのに、あれには慣れなくて』

 この調子で昨日のキスの真意も聞いてやろうかと思ったが、それを話題に上せる勇気はなくて、というより、それを言うと下心の塊だと思われそうなので、僕は喉元に上がって来た言葉を飲み込み、右頬に甦った青柳さんの唇の感触を振り払った。

 が、僕が違う話題を考える間もなく、青柳さんはスマホの画面を僕に示す。

『私、実は黒木さんに言っておかなきゃいけないことがあって』

「何でしょう。」

 僕が話したくても話せなかった話題、直球どストライクの話になりそうな流れに、あくまでも僕は、声の震えを押さえて水を飲む。が、数秒後には僕の肩の力はすっと抜けるのだった。

『お店に入っちゃってからですみませんが』

『実は私』

『ベジタリアンなんです』

 失声症や記憶喪失なんかよりずっと衝撃の少ない告白に、平常心を装うことを意識して変にこわばっていた僕の神経はするりとほぐれた。思わず笑いがこみ上げる。

『おかしいですか?』

「いや、すみません。真剣な顔されるから、何を言われるのかと思って。」

 僕は身近にベジタリアンの知り合いはいないし、菜食主義は日本ではまだ少数派かもしれないが、「記憶喪失」という言葉のインパクトに比べれば、ベジタリアンなんて、何てことはなかった。これがショーさんに「俺、実はベジタリアンやねん」などと言われたのだったら、僕はひっくり返るほど驚いたかもしれないのに。

 そう考えると、笑えてくる。青柳さんも、つられるように笑う。

 ちょうど運ばれてきた料理を、僕らは笑顔で食べた。僕は今更気づいたが、食事中も、ナイフとフォークを手に持つ青柳さんは、会話ができない。

 そのためか、食事が運ばれる前にベジタリアンであることを告白した彼女は、笑顔でランチプレートのフライを僕の皿におすそ分けしてくれた。

 傍から見れば、ダイエット中の彼女からフライを押し付けられる彼氏のように見えているだろうか。それがまたおかしくて、心の端っこがくすぐったいようで、食事中、僕らに笑顔が絶えることはなかった。

 なんだかんだで、結局その場は深刻な話をするような空気ではなくなってしまった。ランチプレートを食べ終えた後も、僕らは明るい話題で笑顔を絶やさなかった。何だか、記憶喪失について言及するのが申し訳ないとか、気が引けるとか、そういうことではなくて、単に僕は青柳さんとの会話が楽しくて、その話をするのを忘れてしまっていた。

 トイレに立ったとき、僕は当初考えていた話題を何一つ話していないことに気が付いたが、僕なんかとこうして会って笑顔でいてくれる青柳さんとの空気を、沈んだものにするのは申し訳ないような気がした。

 だから僕は、彼女が自分で言い出さない限りは、記憶の話に言及するのはやめておくことにした。

 青柳さんと僕は、まだ出会って二十四時間ちょっとしか経っていない。ノベヤマさんの言葉通り、「知り合い」と呼べるほんの初期段階をクリアしたにすぎない関係だ(その割に頬へのキスや手を握ったことはあるのが驚きだが)。そう思えば、彼女の記憶があろうとなかろうと、昨日以前の彼女に何の関係もない僕が、彼女の記憶喪失について考えたところで何になるだろう。僕にできることは、彼女から記憶喪失について聞くことではなく、ノベヤマさんの言った「他人と関わること」を彼女にさせてあげることだ。

 それに、僕は青柳さんに笑っていてほしいと、今日彼女に会って心から思った。プリマヴェラの死から初めて僕に競馬を楽しませてくれた彼女の笑顔。彼女は記憶と声を失ったかもしれないが、あの笑顔こそが、声より記憶より、僕にとっては青柳はるかという女性の存在を素晴らしいものにしているように感じられた。

 声と記憶を奪われても、笑顔を手放さなかった青柳さんに、僕は感謝したい。

 ここまでかたくなに認めようとしなかったが、僕は彼女が好きになり始めていた。

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