失ったもの
日曜日の朝に目を覚ました僕がキッチンに行くと、一人分の朝食後の食器が、流しに乱雑に入れられていた。日曜だというのに、姉は入院病棟の当番とかなんとかで、朝から出勤だ。
青柳さんとの待ち合わせは昼だ。朝はゆっくりしようと、僕は戸棚から食パンと砂糖を、冷蔵庫から卵とバターを取り出して、フレンチトーストを作った。
我ながら良い出来栄えだ、と満足しながら食卓に着くと、僕はそこに小さなメモ用紙があるのに気が付いた。
病院に泊まる 夕食不要 人魚姫によろしく エリコ
姉の書き置きだ。人魚姫というのは、昨日ディズニー映画になぞらえて姉が冗談を言っていた、声の出ない青柳さんのことだろう。「よろしく」というのはどういうことなのか僕は訝しんだが、メモ用紙の傍には姉の名刺が置いてあった。病院名が入っているから、きっと青柳さんが失声症に関してセカンドオピニオンを求めるなら、姉の病院を勧めろということなのだろう。
昨日会ったばかりの人に、抱えたハンディキャップについてどうこう言うなんてできないが、名刺をここに置いていたら姉に何か言われそうだ。僕は姉の名刺を、いつも持って出かけるメッセンジャーバッグのポケットに滑り込ませた。
朝食をとり、姉の分も食器を洗ってからは少しゆっくりして、僕は早めに家を出ることにした。青柳さんのためにもゴール前のスタンド席をキープしておこうと思ったのだ。
マンションの廊下に出ると、昨日と同じように秋の空は明るい。
軽い足取りで出かけた僕が淀駅で電車を降りた昼の十一時には太陽がギラギラと照り付け、息の長い夏の名残が、頑固に京都に居座っているようだった。
そんな中でも淀駅はやはりすごい人で、競馬場への通路はおじさんや若者、ところどころにいる家族連れや若い女性のグループが生み出す熱気に満ちていた。
ゲートをくぐって競馬場に入った僕は、真っ先に昨日のスタンド席に向かった。日曜日だけに人は昨日よりも多かったが、さすがは全国でも最大級の規模を誇る京都競馬場のスタンド席だ。僕は難なく、京都競馬場のシンボルでもある白鳥を象ったゴール板がよく見える席を二つ、確保できた。
青柳さんは、もう来てるのかな。
かなり熱心な競馬ファンではあるが、馬券の方も上手な彼女のことだから、僕との待ち合わせより先に来て、ゴール前に張り付いていることも十分考えられたが、僕がキープした席の周囲に、若い女性はいなかった。
パドックにいる、とか……?
僕はパドックを見に行こうと、買っておいたペットボトルのお茶二本で席をキープしておいて、スタンドを去った。
馬券売り場を横切ってパドックに出ようとしたときだ。パドックに近いゲート「シンザンゲート」とパドックの間の広場のようなところで、バサバサと紙束が落ちるような音がした。
思わず音のした方を見た僕は、次の瞬間には視界を白い物に閉ざされていた。
「うわっ!」
僕は夢中で顔にへばりついた紙束をつかみ取る。どうやらそれはルーズリーフのようなもので、細々と何かが書き込まれている。
「何だ、これ……」
最初は熱心な予想家の予想ノートか何かかと思ったが、何気なく目で文字列をなぞると、すぐにそうではないことに僕は気づいた。
三十三歳 男性 PTSD ストレス いじめ
二十五歳 女性 強迫性障害 セラピー紹介
二十二歳 女性 逆行性健忘 交通事故 外傷性 心因性
これは、カルテ……かな。
見知らぬ誰かの年齢と性別、病気の症状と原因とみられる言葉。姉が医者でも、僕自身は医者でも医療関係者でもないから、カルテというものはドラマなんかでしか見たことがないが、誰かの病気について書かれたこの紙は、カルテとかそういう医者がつける記録のようなものだろう。
見ちゃダメだ。
そうと僕はわかっていたのに、ただ、本当に何となく、持ち主を探すのに役立つことは書いていないか確かめるくらいの気持ちで、手元の紙束をめくった。
紙束の二枚目は、顔写真入りの個人情報の塊とも言えるページだった。すぐに僕は目を離して、めくった紙を元に戻そうとしたのだが。
視界の端をかすめた文字列。僕は反射的に紙束に目を戻して。
そして、僕の全身の神経がぞわりと震えた。
青柳 はるか
二十二歳 女性 19XX年04月12日生
トラックとの衝突事故。昏睡状態から覚醒するも、覚醒以前の記憶が全く失われる。失声症を併発。外傷、ストレス、両方の影響が考えられる。幸いにも身元は判明したが、身元引受人はなし。
間違いなかった。そこに記載された情報。画素の粗い写真の中で、花柄のストールを巻いて笑う女性。青柳さんだ。顔写真も、記載された名前も。それに、「失声症」の文字。でも。
僕の目は、楽しそうに笑う青柳さんの顔写真でも、彼女の誕生日でもなく、たった一か所に引き付けられていた。
覚醒以前の記憶が全く失われる。
紙には確かにそう書いてあった。
トラック事故?
記憶が失われる?
休職中だという自分を「こんな状態なんで」と笑った彼女の言葉は、単に失声症を指していたのではなかったということなのか。
僕が混乱しそうな頭で突っ立っていると、不意に誰かが背後から声をかけてきた。
「すみません。」
ビクッとして僕が振り返るとそこには、ダークグリーンのスーツを着た初老の男性が立っていた。僕が必要以上にビクッとしてしまったのか、その人もちょっと驚いたような顔をしていた。
見たこともないような上品な人だ。スーツは手入れが行き届いて清潔感があるし、整えられた白髪は銀細工のようだった。日本にも紳士と呼べるような、こんなおじさんがいたんだな、と感心してしまう。
「その紙なのですが……」
遠慮がちに差し出される手。僕は慌てて、拾った紙束を紳士に手渡した。
「……読まれましたか?」
紳士はちょっと困ったように微笑みながら、僕に尋ねた。尋ねたといっても、僕を見ていれば、後ろからでも紙を見ていたことはわかったはずだ。僕は正直に頷いた。
「そうですか……読まれた内容は、くれぐれもご内密に願えますか?」
「ああ、はい……あの……」
僕は黒い革のかばんにルーズリーフをしまう紳士に、思わず話しかけた。昨日会ったばかりの青柳さんだが、その彼女に関する情報が書かれた紙を持った人が待ち合わせ場所の近くにいた、なんて偶然を僕は放っておけなかった。これは好奇心だろうか。
「あの、その……紙に書いてある人、なんですけど……」
「……お知り合いの方でも?」
不意に、紳士の目が刺すように僕を見つめた。僕は気おされた。だが、紳士の目は僕をたじろがせると同時に、有無を言わせず真実を話させもした。
「ええ、そうなんです。昨日、会ったばかりですけど。」
「そうですか。で、彼女はどんな……?」
僕が正直に青柳さんと知り合いであることを明かすと、紳士の表情が和らいだ。僕は青柳さんと出会ったいきさつを紳士に話した。
僕の話を、紳士は穏やかな笑顔で聞いていた。妙なものだ。馬を見るでもなく、パドックの傍で身なりの良い紳士と、さえない僕が話している。
「そういうことでしたか。他人と積極的に関わることは、彼女にとっても良いでしょう。今日も、楽しんで下さい。」
「あなたは青柳さんの、その……身元引受人、とか……ですか?」
紳士がにこやかに笑ったところで、会話を切り上げていればよかったのかもしれないが、僕は思わず紳士に尋ねていた。さっき拾った紙に書いてあった。交通事故で、声と記憶を無くした青柳さんには身寄りがないと。
だから僕は紳士が、青柳さんと何か関わりがある人で、彼女を心配し、外出先に先回りしていたのではないかと思ったのだ。
「まあ、そのようなものでしょうか……ふむ。」
僕の問いかけに言葉を濁した紳士は、何かを決めたように、ジャケットのポケットから小さなカードを取り出した。
「これも何かの縁でしょう。私は、こういう者です。」
紳士が僕に渡したのは名刺だった。
Nobeyama Counselling Office
S. NOBEYAMA
質の良い薄緑の分厚い紙に、上品な書体の横文字の名刺。僕のメッセンジャーバッグに入っている姉の名刺とは、かかっている金額が違いそうだ。
ノベヤマ・カウンセリング・オフィス、S・ノベヤマ。
アルファベットで書かれているので漢字表記はわからないが、紳士の苗字が「ノベヤマ」であること、カウンセラーか何かか、またはそういう事務所を経営しているかであることがわかった。
「では。」
僕が名刺に見入っていると、紳士ノベヤマさんはそれだけ言い、僕が名乗るのを待つこともなく、足早に去って行ってしまった。スタンドの方へと歩み去る後姿は、けっしてせかせか歩いているわけではないのに、僕には呼び止める間も与えないほど、颯爽と去っていく。
行っちゃった……
ノベヤマさんにもう少し青柳さんのことを聞きたいと思った僕だが、追いかけてまでは聞けなかった。よくよく考えれば、僕が青柳さんと知り合いだという確固たる証拠は何もないのだ。ノベヤマさんだって、多くを話すわけにはいかないだろう。そもそも、あの紙束を風にさらわれた時点で、ノベヤマさんにとっては結構な失態だったはずなのだ。
それにしても、青柳さんが記憶喪失だったなんて。
声が出ないことは最初に言ってくれたのに、なぜそんな大事なことを青柳さんは言ってくれなかったんだろう。
昨日、僕らはお互いのことをけっこう話した。青柳さんがあれこれ聞くから、僕のことを話している時間の方が少し多かったかもしれないが、青柳さんのことだって、いくつか聞いた。休んでいる仕事はフリーライター、家は僕の住んでいる区の隣の区。何より青柳さんは北海道出身だと僕に聞かせてくれた。緑豊かな牧場が多い地区の話も、結局は記憶を無くした後に自分について調べて知った話なのだろうか。
記憶がないという感覚は、声が出ない感覚よりずっと、小さい頃から健康だけが取り柄だった僕には想像がつかない。でも、それがひどく不安で、寂しくて、恐ろしいことなんじゃないかということは何となく感じられる。
それなのに青柳さんは僕といる間、ほとんどの時間を笑顔でいてくれた。
いったいどれほどの時間を、彼女は自分が何者かもわからずにいるのだろう。プリマヴェラの話をしていたから、青柳さんが事故で記憶を無くしてから、少なくとも二年は経っているはずだ。
それを思うと、僕に何ができるわけでもないとしたって、僕は彼女に何かしてあげたくなった。
いつの間にか僕は昨日よりずっと、青柳さんに会いたくてたまらなくなっていた。
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