アンダー・ザ・シー

 不自然に足元がふわふわと浮いたような、それでいて大きな不安に胸が圧迫されるような、妙な気分で家に帰った僕だが、マンションの部屋の前に立つと、パシンと両手で頬を打って気を引き締めた。

 姉は今日、休みで家にいる。小さい頃から、僕を含め人の秘密を嗅ぎつけては引っ掻き回すことにつけては右に出る者がいなかったほどの姉だ。大人になって、互いの私生活に干渉しなくなった今でも、姉に何かを知られてどうこう言われるのは、幼いころからの習性のせいで落ち着かない。

 平常心だ。

 その「知られたくないこと」が、今日初めて会ったばかりの女性にキスされたことなんてことになれば、なおさら僕の不安は大きくなる。

 玄関を開けて部屋に入ると、ちょうどトイレから出たらしい姉が廊下にいた。

「どこ行ってたの。」

 不満そうな姉の声から、まだ夕食をとっていないことがうかがえた。姉が転がり込んで来た当時、気を遣った僕は多忙な姉の分も食事を作っていた。その気遣いは今や図に乗った姉に完全に利用されていたが、そこで反発する気力も持てないのが、僕という哀れな弟の性分だった。

「先輩と出かけてた。」

 落ち着かないながらも、帰りがけにちゃんとスーパーに寄っていた僕は、少しの野菜や、安かったサンマなどなどが入ったレジ袋を、キッチンのテーブルに置く。

「サンマなの。」

「別にいいだろ、安かったんだから。」

 不満があるなら食べなくてよろしい、なんてことは言えないのが僕である。が、姉もサンマが嫌だと言って僕をもう一度スーパーに行かせるほどジャイアンではないので、「ま、いいわ」などと言いながら、サンマを焼く準備をする僕の代わりに、卵やヨーグルトを冷蔵庫にしまう。

「シュン、あんたサンマはいいけど、レモンと大根がないよ。」

「えっ!」

 僕はレモンと大根がないことよりも、レモンを買い忘れたことで僕に何かあったんじゃないかと姉が疑うのではないか、ということに焦った。

 が、さすがにそれは僕の考えすぎだった。

「ま、いいわ。ビデオ返しに行こうと思ってたから、買ってくる。」

「えっ!」

 姉が買い物に行ってくれるなんて。今度は、僕は別の意味でぎょっとした。

「……失礼ね。人がせっかく買ってきてあげようっていうのに。」

「ごめん。ありがとう。」

 姉がレンタルDVD屋の袋を持って出て行くのを背後に感じながら、僕はサンマを焼き、野菜炒めを作った。

 香ばしい匂いがキッチンに漂ってくるのを感じながら野菜を炒めていた僕は、自然と青柳さんのことを考えていた。

 いくら意気投合したからといって、今日初めて会った僕にキスするなんて。下心がないとはいえ、僕だってあんなことをされたら、彼女のことを意識せざるを得ない。しかも、僕らは明日また会う約束までしている。

 青柳さんは僕をどう思って、あんなことをしたんだろう。

 声が出ないということを除けば、彼女は街中によくいるような、ちょっと派手な若い女性だ。ギャルとかヤンキーとかいう人種と縁がない僕にとって、そういう女性の行動原理というのは想像しがたいのだが、彼女らにとってキス(しかも口ではなく頬に)というのは、僕が思うよりずっと軽いものなのかもしれない。

 でも、今日ずっと会話をした感触で言うと、青柳さんは見た目こそそういう派手な女性に近いが、思考はもっとずっと落ち着いていそうな感じだった。

 もしも、仮に、万が一、彼女が僕に好意を抱いていたとしても、観戦の間ずっと控えめで良識ある態度だった彼女が、帰り際に急にあんな大それた行動に出たことが、僕には不可解だった。もちろん青柳さんは美人だし、一人の男として嬉しさがあったことは確かなのだが。

 こんなとき、ショーさんなら大喜びで、深く考えることなく、明日のデートに喜々として臨むのだろう(シホさんがいるから、今はそんなことはないが)。こんなときにこうしてごちゃごちゃと考え込んでしまうから、僕はよくショーさんに「そんなんやから、彼女もできひんのや!」と言われ、姉に「そんなんだから、彼女もできないのよ」と言われる。

 そういえば。

 姉の、家主たる僕をどこまでも小馬鹿にする口調を思い出して、僕ははたと思いついた。今回のことを姉にひた隠しにするのではなく、姉に相談するという道もアリなんじゃないか、と。

 僕の隠し事を見事なまでに見抜き、どうすれば僕が言う通りに動くかを見事なまでに計算して僕をこき使う姉。そんな姉は、人の心を扱う仕事で成功していた。

 僕の恐るべき姉・衿子えりこは精神科医なのだ。

 姉にしてみれば女性心理の分析なんてお手の物だろうし、さらに言えば、青柳さんのように何らかの原因で声が出なくなった人にも、姉なら接したことがあるかもしれない。

 僕はいいかげんに進めていた夕食作りにちょっと身を入れ、野菜炒めの味を丁寧に調え、ツナ缶と冷蔵庫にストックしていた野菜でサラダを一品付け加えた。

「ただいま。」

 弟があれこれと考えていることなどつゆ知らず、姉はのんびりと用事を済ませ、すっかり夕食が出来上がった頃に帰ってきた。

「あら、いい匂い。」

 キッチンに入って来るが早いが、買ってきた大根を押し付ける姉。もちろん僕は大人しく、そして手早く大根を下ろす。レモンはしぼりやすいくし切りに。

「いただきます。」

 ガサツでズボラな姉だが、「いただきます」と「ごちそうさま」は欠かさない。僕らはぽつぽつと会話もしつつ、夕食をとった。

「今日、何かあった?」

 何気なく聞いただけなのか、僕の態度にどこかおかしいところでもあったのか。さすが、またはやはりというべきか、姉は僕に聞いてきた。

「うん……」

 僕はなるべく何でもないふうに、軽く聞こえるように、今日あったことを話した。

「へえ、失声症しっせいしょうのギャルか……」

「……そうなんだ。」

 まさかキスのくだりをスルーされると思っていなかった僕だが、それを言うと変に誤解されそうなので、姉に話を合わせた。

「失声症っていうのは、ストレスが原因のことが多いからね……その子、けっこうアブナイかもよ。」

 キスのくだりは無視なのに、なぜか僕が青柳さんを口説く前提で話が進んでいる。

「アブナイって、僕は別に……っていうか、声が出ないのって『失声症』っていう病気なんだ。」

「そうね。声が出なくなる原因はいろいろだけど、体に異常がないのに声が出ない症状をそう呼ぶの。映画とか、フィクションでもよくあるでしょ、そういうの。」

「例えば?」

「うーん……じゃあ、これ。」

 姉は、テーブルの隅に置いていた、レンタルDVD屋の袋から、一本の映画のDVDを取り出す。返却ついでに、新しいのを借りてきたようだ。青柳さんが抱える問題が登場する作品を姉が偶然借りてきていたことに僕は驚いた。

 食べ終えた夕食の食器の片付けを僕に押し付け、キッチンの隣のリビングに姉はDVDを持って行く。食器を流しに置いてすすいだ僕が、麦茶のパックとコップを二つ、それからポテトチップス一袋をお盆に載せてリビングに入ると、姉はもうDVDを再生していて、カラフルな映像と陽気な音楽が流れていた。

 カニだかエビだか、赤い体の生物が、色とりどりの魚や貝といっしょに、エメラルドグリーンの尾を持った人魚の少女に歌を歌って聞かせている。小さい頃に両親がよく姉に見せていて、そのせいで僕もお気に入りになっていた、ディズニーの「リトル・マーメイド」だった。

「失声症が出てくる映画って、これ?」

「そう。」

 姉の寝床でもあるソファに腰かけて、僕らはポテトチップスをかじりなから映画を見た。人魚姫アリエルが悪い魔女との取引で、人間の足と引き換えに声を失うのはまだ先だ。何度も見ているから僕にも、もちろん姉にも、この先はわかっている。

「これは疾患じゃなくて魔法じゃないの?」

「体に異常がないのに声が出ない症状を失声症と呼ぶのよ。」

「人魚の尻尾が人間の足に変わるのは異常じゃない?」

「……あんたにもわかりやすいように『体』って言ったの。厳密には発声器官に異常がないのに声が出ない症状、ね。」

「ふうん……」

 失声症の人が出てくる映画の例を挙げるのがめんどくさかったんだね、とは言えず、僕は黙ってリトル・マーメイドを見た。やがて王子が悪い魔女を倒してアリエルと結ばれる、原作の童話とは全く違う結末までポテトチップスを食べ尽くさなかった僕らは、けっこう経済的な姉弟だと思う。

「さっき言ってた子とあんたが結婚したら、声、出るようになったりして。」

 エンドロールは最後まで見る主義の僕を無視して、エンドロールが始まるや否やDVDを停止した姉は、夕食の席での僕の相談を持ち出して笑う。アリエルは足をもらうかわりに、王子との恋を成就させなければ、魔女から声を取り戻せない契約を結んでいた。

 本人がいないところでの発言とはいえ、精神科医としてはあまりに不謹慎な発言に、僕は姉の仕事ぶりが心配になった。

「その子が悪い魔女に、さえないサラリーマンとの恋を成就させるっていう契約の担保として声を差し出してたらの話だけどね。」

 追い打ちをかけるように不謹慎発言を連発しながら、姉はDVDをデッキから取り出し、次はまたディズニーの「美女と野獣」をセットする。

「年甲斐もなくディズニー好きだね。」

「対象年齢は『全年齢』だからいいのよ。戸棚にチー鱈があるから持って来て。」

 真面目な相談を笑いに変えられた仕返し、とばかりに言った僕の言葉も、姉は意に介さない。おまけに、僕に新たなおやつを持ってくるように命令までする始末だ。

 僕は戸棚に姉がストックしているおやつの中からチー鱈を取り出してリビングに持って行き、美女と野獣は見ずに、キッチンでさっきすすいだ食器を洗った。

 青柳さんのことを姉に相談したところで、特に成果はなかった。初対面の男にキスをする女性の心理についてはそもそも話すらできなかったし、失声症についてはもう「考えるのがめんどくさい」と言われたも同然だ。

 食器を洗い終えてふと時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎていた。

「明日は早いんじゃないの?」

 リビングを覗いて僕は姉に注意しようとしたが、姉はとっくにソファの上で眠りこけていた。テレビの画面ではヒロインと打ち解け始めた野獣が、城の庭で小鳥に餌をやっている。

 勝手に停止すると姉が目を覚ましたときに文句を言われそうなので、僕はソファの下に畳んであったタオルケットを姉にかけて、リビングの電気だけ豆球にして、寝る準備をした。

 結局、明日は何も考えずに青柳さんと向き合うしかないのか。

 姉が僕の相談に大した反応を示さなかったのは、「考えすぎるな」という意味なのだろうか。

 そう受け取るのは僕の自由だ、と姉は言うだろう。そして、きっとそこには本当は大した意味はなく、姉の反応の薄さの理由は「めんどくさい」の一言に尽きるのだろう。

 姉に、仕事でしているような話を、心を休めるべき休日の家でさせたことで、普段こき使われている仕返しができた。そう思えることが、この夜に僕がしたことの唯一の価値かもしれない。

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