フレースベルク

 第四レースと第五レースの間には昼休みのような空白の時間があって、僕らがパドックに着いてから第五レースの出走馬が出て来るまでは、それなりに時間があった。

 僕らは変わらず、ちょっとゆったりしたテンポで筆談と肉声での会話で時間をつぶしていたが、青柳さんはずっと競馬とは関係のない話題をふってきた。

 さっき僕が秋華賞のことを思い出してしまったことで、気を遣わせてしまったらしい。僕は努めて明るくふるまうようにしたのだが、それも彼女には伝わってしまっていたみたいで、結局僕は作り笑いをやめた。

 でもそんな僕にも、青柳さんは笑顔で話しかけてくれる。最初はギャルっぽい見た目に、僕も少し彼女を警戒してしまっていたが、もはやそんな気持ちはどこかへ消えてしまった。

 気分はすっかり晴れたとはいえないものの、僕は笑顔で話す(書く)青柳さんに聞かれるままに、いろいろなことを答えていた。京都の会社への就職を期に、千葉の片田舎から出てきたこと。朝に一緒にいたのは会社の先輩であること。今は姉と同居していること……

 青柳さんは僕のことを何でも知りたがった。聞かれるまま答えて、しまいには中学時代に陸上部でやっていたハードル走のルールにまで話が及んでいることに、僕は思わず苦笑した。

「何だか、僕のことばかりしゃべっちゃってますけど……青柳さんのことは、聞いちゃダメですか?」

『すみません、なんだか、たくさん聞いてしまって』

 しまった、と口に手を当てるジェスチャーは、まるで普通に声が出ているかのように感情がクリアに伝わってくる。

『でも、私のことなんて聞きたいですか?』

「そりゃあ、僕ばっかりしゃべってるのもアレですし……お仕事は、何をされてるんですか? それとも、学生さん?」

『仕事は、文章を書いてるんですけど、今は休職中なんです』

『こんな状態なんで』

 青柳さんはおどけたいたずらっぽい笑顔で肩をすくめた。「こんな状態」というのは、声が出ないことを指しているのだろう。僕は一瞬、彼女のハンディキャップに触れてしまったことに気まずさを覚えたが、当の本人が澄まして笑っているのだから、変に僕が気まずがるのもかえって失礼な気がして、思わず下げそうになった頭をぐっとキープした。

 でも、声が出なくなって休職したということは、青柳さんは昔から声が出ないわけではないということだ。

 文章を書く、というのもちょっと曖昧な表現だが(メディアの記者、フリーライター、小説家……どれも文章を書く仕事だ)、サラリーマンの僕から見れば自由そうなそういう仕事にも、声が出なくなるほどのストレスがあるものなのか。

「競馬場には、毎週来てるんですか?」

 声が出なくなった経緯について聞けるわけもなく、僕は別の話題を持ち出す。

『毎週ではないですが、よく来ます』

「京都がメイン?」

『ええ、京都に住んでるので』

『プリマヴェラがいた頃は、いろんなところに行ってましたけど』

 ああ、それは僕も同じだ。青柳さんはさっきのことがあってから、プリマヴェラの話はまずいと思ってくれているのか、すぐにスマホに新しい言葉を入力している。僕が違う話を、と一瞬考える間に、彼女はもう画面をこちらに向けていた。

『黒木さんは、馬券は買わないんですか?』

「僕は、予想に関してはそこまで自信がないので……ときどき買うくらいです。」

 それから、僕らはパドックの柵に寄りかかりながら、他愛もない話をして過ごした。

 やがて時間は過ぎていき、青柳さんが北海道出身らしいということがわかったところで、青柳さんが僕の肩を叩いて、パドックの中を指さした。第五レースの出走馬がパドックに現れたところだった。

 やはり今日デビューする馬たちで、体格がやや寂しい馬や、落ち着きなく周囲を見回す馬が多い。そんな中、僕の目も周りの人たちの目も、自然と十二番の馬に引き付けられる。

『ダントツの一番人気ですね』

 青柳さんが指さした電光掲示板。十二番、フレースベルクの単勝オッズは一・四倍。百円の馬券を買って当たっても、百四十円しか払い戻しはされない。

「でも、仕方ないですよ。体格もいいし、一頭だけ落ち着いてますし。」

 のしのしと、ひときわ立派な馬体で悠々とパドックを歩くフレースベルク。他の馬など意に介さない、といったような落ち着きようだ。毛並みもぴかぴかで、デビュー戦での仕上がりで言えば、姉のプリマヴェラとは毛色以外の共通点が全くと言っていいほどなかった。この仕上がりならプリマヴェラの弟でなくても注目されたろう。

『でも案外、デビュー戦で緊張して、強がってるだけかも』

 青柳さんが笑って差し出した画面に、僕も思わず小さく吹き出す。ちょうど僕らの前にやってきたフレースベルクがブルルル、と鳴いたのも何だかおかしくて、僕らは笑い合っていた。

 よく馬券を買うらしい青柳さんが、ショーさんのような根っからのギャンブラーではなくて、競走馬にも「気持ち」や「心」があると考える側の人だということがわかって、僕は何だかホッとした。

 職員さんの間延びした「止まれ」の合図で周回が終わり、出走馬がパドックから引くと、僕と青柳さんはフレースベルクの「応援馬券」を買いに行った。

『当たるといいですね』

「当たるでしょう。」

 まだ笑いながら僕らはスタンド席に戻り、第五レースのスタートを待った。

 笑い合ううちに、朝から感じていた気だるさも、プリマヴェラの死を思い出したショックもいつの間にか消え去っていたことを、僕は後々思い出してはじわりと熱いものを感じることになる。


 結局その日、僕は最終レースまでずっと青柳さんと観戦した。さっさと帰りたいと思っていた朝、とりあえず第五レースは見てもいいかなと思っていたお昼前とは全く違う気分で、僕は競馬場にいることを楽しめた。全く、青柳さんのおかげだ。

 それにしても、青柳さんの馬券師としての実力に僕は舌を巻いた。一緒に馬券を買った第五レースから最終レースまでの八レースで、青柳さんは五レースも馬券を的中させていた(しかも内二レースが万馬券だった)。

『楽しかったです。ご一緒させていただてありがとうございます』

「いえ、こちらこそ。それにしても、青柳さん、すごいですね。特にさっきの最終レースなんか。」

 最終レース、直線で馬群を追い抜いた一番人気の馬を、六番人気、九番人気の馬が最後の最後で追い抜いて、三着までを順番通りに当てる「三連単」の配当額はけっこうなことになっていた。それを青柳さんは当てておいて、当の本人はすましたものだ。

『だって、あの二頭はやってやる!っていう目をしてましたから』

 大きな当たりがあったレースで、僕がすごいですねと言うたびに、彼女はこんな返事をしていた。

 思えば、最初に一緒に見た第五レース、ダントツ一番人気だったフレースベルクは、惜しい二着に敗れていた。パドックで青柳さんが言った「緊張して強がっているだけかも」という冗談は、図らずも当たっていたことになる(本当にただの冗談だったかどうかも怪しい)。

 馬の気持ちがわかる馬券師。

 僕は、決して下心とか、彼女の予想に乗っかって儲けたいなんて気持ちではなく、純粋にかつて一頭の馬に魅了された競馬ファンとして、青柳はるかという人に興味を持ち始めていた。

『黒木さんは、電車ですか?』

 最終レースまで観戦した観客たちが家路に着いた後の閑散としたパドックで、青柳さんは淀駅へのステーションゲートを指さした。

 このままお別れはちょっと寂しいなと思いながらも、僕は頷く。

「青柳さんは、バスですか?」

 青柳さんも頷く。

「あの……」

 ナンパみたいになるが、連絡先だけでも聞いておこうかと僕が切り出したのと、僕の目の前にスマホの画面が現れたのはほぼ同時だった。

『明日も、観戦されますか?』

「へ……?」

『黒木さんが明日も来られるなら、またご一緒できませんか?』

 思わぬ申し出に、僕は考えることもなく返事をしていた。それも、朝の僕の気分からは考えられないような二つ返事で。

「あ、ああ、はい、ええ。もちろん。青柳さんさえよければ。」

 青柳さんはまた、ぱっと笑顔を咲かせてスマホをポケットに入れると。

 次の瞬間には、ちょっと冷たくて柔らかい、小さな手が僕の手をとっていた。ぎゅっと僕の手を握って微笑む彼女に、僕は戸惑いながらも笑顔を返した。

 初対面の男の手を握るなんて、変な誤解をされてもおかしくないようなことを、ハンディキャップを抱えた彼女がすることはちょっと心配だった。が、青柳さんは、握った僕の手にあった腕時計の文字盤と、僕たちの足元を交互に指さす。そういう意味か。

「明日の十二時に、ここで、ってことですか?」

 元気よくうんうん、と頷く青柳さん。

 と、次の瞬間。

 握られた僕の手が、ぐっと引かれたかと思うと、ふわりとした明るい茶色の髪が僕の顔に当たって。頬に何やら、柔らかくて少し湿った感触があった。

 呆然とした僕は、嬉しそうに手を振りながら、ゲートをくぐって行く青柳さんを目で追いかけることしかできなかった。

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