秋の花は

 その日、京都競馬場はいつにない活気に満ちていた。

 数ある競馬のレースの中で最高峰「G1」に格付けされるレースというのは、たいていどれも混雑するものだが、三歳牝馬の三冠レース最後の一冠「秋華賞」はまだ歴史も浅く、同じ京都競馬場で行われる春の「天皇賞てんのうしょう」や三歳牡馬の三冠レース「菊花賞きっかしょう」より混雑するということはあまりない。

 それが、その年に限って言えば、秋華賞はそれら伝統あるG1レースに匹敵する混雑を見せていた。

 なぜなら、滅多に現れない三冠馬の誕生を目の当たりにしたいと、多くのファンがプリマヴェラの勝利を期待して集まっていたから。それに、プリマヴェラは三歳世代に限らず、四歳以上のベテラン競走馬にも引けをとらない強さと言われ、早くも史上最強牝馬と評価する人も出ていたほどの馬だった。

 デビュー戦でほとんど誰にも目を向けられず、勝った時には番狂わせとして怒号を浴びせられたような痩せ馬の姿は、もうなかった。

 小柄ながらどんどん成長していたプリマヴェラは、そのときにはもう、しなやかな筋肉と、それを包むぴかぴかの栗色の毛並みでファンたちを魅了していた。

 ただ、あのデビュー戦で僕を釘付けにした、あの目だけは変わらなかった。自分の前に立ちはだかる相手など、いないと言っても過言ではないほど強くなってからも、前だけを睨むようなあの目だけはずっと静かに燃えていた。

 ゴール前の観客席は早朝から並んでいた人たちに全て取られ、僕は仕方なく、いつものゴール前からはだいぶ遠い第四コーナー付近、馬たちが直線に向いてラストスパートを始める地点の真ん前に陣取っていた。スタンドの上の方なら、もっとゴールに近いところも空いていたかもしれないが、僕は黄金の風になって走るプリマヴェラをできるだけ近くで見たかったから、フェンスぎりぎりの場所が空いていたそこを選んだ。

 そのせいでつらい光景を間近で見ることになるなんて、その時は僕も、僕の周りに陣取った人たちも思っていなかった。


「各馬、第三コーナーに差しかかります。ここでプリマヴェラ、早くも動く! 現在五番手!」


 スタートからずっと最後方に近い位置にいたプリマヴェラがだんだんと速度を増して、馬群をぐいぐい追い抜いていく。スタンドから歓声が、まるで遠くから迫って来る荒波のように、じわりじわりと湧き上がり、どうどうと渦を巻き、うねりを上げて、最高潮に向かう準備をしている。

 そのまま馬群の外側に一気に持ち出したプリマヴェラは、コーナーの直後に立つ僕らの方へまっしぐらに、馬群を追い越しながら駆けて来る。飛ぶように軽い足取り。西日をはらんで空を切る尻尾。まるで彗星のようだった。


「第四コーナーから直線、プリマヴェラは大外だ、早くも先頭に代わる勢い、さあここからだ……おっと!」


 スタンドを満たしていた人々の声が、一気に弾けた。

 大歓声ではなく、どよめきと悲鳴として。僕のように、声も出ない人もいただろう。


「プリマヴェラ転倒! これは何ということだ! 後は一団だ、何が出る、何が出る!」


 僕らの前を、空気を切り裂いて駆け抜けようとした瞬間だった。地面に着いたプリマヴェラの脚が、若干妙な角度で曲がったかと思うと、プリマヴェラは現役最速のその脚の勢いを止められず、外側につんのめって転倒した。騎手はポンと空中に放り出され、地面に叩きつけられていた。

 もはやレースどころではなかった。実際僕は、そのとき結局どの馬が勝ったかなんて見ていない。

 ほとんど目の前だった。

 よろよろと立ち上がったプリマヴェラはその場に立ち尽くし、左の前脚を持ち上げていた。関節から力なく垂れ下がるその脚は、プリマヴェラが地面に下ろすたびに、ぐにゃりと変な角度にぶれる。

 明らかに、骨が折れていた。

 獣医学なんてさっぱりの素人の僕にさえ、それはもはや明白だった。なのに。

 プリマヴェラは暴れる様子もなく、声すら立てず、立ち尽くして壊れた自分の脚をじっと見ていた。

 そのプリマヴェラが、おもむろに顔を持ち上げたとき。

 瞬時に、僕はプリマヴェラと目が合った……と感じた。勘違いだ、バカなことを、と言われるかもしれない。でも僕は、少なくともプリマヴェラの目に惹かれ、ずっと見続けてきたこの僕は、そう感じた。

 でも、そこで僕が見たのは、あの燃えるような目ではなかった。

 プリマヴェラの目には、もうあの前へ前へと地を蹄で捉えて進んで行くような、その道を何者にも邪魔をさせないような、荒々しくも気高い光はもうなかった。

 静かな目だ。

 穏やか、というのとはまた違う。まるで、突然訪れた自分の競走馬としての生の終わりを、淡々と受け入れるかのような。

 何で、君はそんなに。

 この後、自分がどうなるか、プリマヴェラにはわかっていただろうか。僕にはわからないが、走る本能を持って生まれた生き物として、自分の生命の危機は感じていたはずだ。

 それなのに、プリマヴェラはいたって落ち着いていた。今までのレースで見せてきた闘志が嘘のような、湖の水面のように静かな目が、僕を捉えて放さない。まるで、自分が死ぬことなんて何でもない、とでも澄まして言っているような。

 そんな目をしないでくれ。

 僕はいたたまれなくなって、足早に競馬場を後にした。

 走るために生を受け、走ることしか道は与えられず、その走ることができなくなれば、思い残すこともなさそうにじっとしている。そんなプリマヴェラの姿を見ていると、数々の圧勝劇も、自分が夢中になって送った声援も、実のところプリマヴェラにとっては「思い残すこと」にもならない、些細なことだったのだと思い知らされるような気がして。

 でも、そんなことを考える自分いるというのは。プリマヴェラがもっと苦しそうにもがいていれば救われたのか……それは断じて違う。違うんだけれども……

 そんなドロドロした感情が、胃袋の周りにまとわりついてくるようで。

 結局、逃げるように家に帰った僕はソファに倒れ込んでそのまま寝てしまい、ふと目を覚ました深夜のスポーツニュースで、プリマヴェラの死が報じられるのを見たのだった。


『大丈夫ですか?』

 どれくらい僕はぼうっとしていたろう。

 青柳さんが心配そうに僕の肩を叩く。僕は慌てて、目頭から外を覗きかけていた涙を引っ込めた。

「……すみません、ちょっと、秋華賞のことを思い出してしまって。」

 このとき初めて、青柳さんの笑顔が曇った。

『すみません。バカなこと聞いちゃいましたね』

『私も、あのレースは忘れられません』

 本当ならここで、そんなことありませんよ、僕の方こそ気を遣わせてすみません、と笑顔で返せばよかったのだが、僕らはそのまま黙り込んでしまった。

 そんな僕らにまた、さあっと秋の風が吹き付ける。でも、今度は何も飛ばされない。

 そのかわりに場内のスピーカーから、重厚だがどこか安っぽい管楽器のメロディが飛んでくる。さっきパドックを歩いていた第四レースの出走馬たちが、ターフに入ってくるのだ。

 本馬場入場のメロディを聞いて、僕の隣で青柳さんがすくっと立ち上がった。

『パドック、行きませんか?』

『第五レースの馬が出てくる前に、場所をとりましょう!』

 さっきの気まずい沈黙を、努めて吹き飛ばそうとするかのように、青柳さんはまた弾けんばかりの笑顔に戻っていた。

「そうですね。行きましょうか。」

 さすがに僕も、ここでふさぎ込んだままだと申し訳ない。

 僕らはたくさんの缶コーヒーでスタンド席をキープして、パドックに向かって行った。

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