苦いコーヒーと思い出と

 スタンドに戻って来た僕は、最初に座っていた席に腰を下ろした。ちらりと最前列に目をやったが、さっきの女性はもういなかった。荷物もない。もうショーさんも帰ったのだから、じろじろと席を見たり、あの人を探したりしたところで冷やかす人はいないのだが、小心者の僕はなんとなく、それっきり最前列に目を向けられなかった。

 決してショーさんの言うように、あの女性に変な気持ちを抱いたとか、そういうのではない。ただ、「しゃべれない」というハンデを抱えた人に会うことはあまりないし、一人で来ているらしかった彼女がどこかで不都合なことになっていないか心配だった、というくらいの気持ちだ。

 でも、いないなら仕方ない。

 探し出してまで手助けをするほど僕はお節介ではないし、過剰に気を遣うのも、独善的な親切心の押し売りのような気がしていやだった。

 そうしてスタンドに座ったまま、第四レースが終わるまで、僕は暇つぶしにショーさんにもらった新聞を読んで過ごした。新聞には第五レース以降のレースにもいろいろと赤ペンで印がしてあった。僕を心配して誘ってはくれたが、ショーさんだってがっつり競馬を楽しむつもりだったらしい。

 それとこれとは別や、と言って笑うショーさんの顔が浮かぶようだった。

 第十レースの面くらいまで新聞を読んでいた僕は、ふと、スタンドの通路を歩いて来る足音が、すぐ近くで止まったのを聞いた。

「あ……」

 振り返ると、あの女性が立っていた。さっき飛んで行ったショールは肩にかけられ、両腕には何やら缶コーヒーが十ばかり抱えられている。

 女性は僕の隣の席の辺りをじっと見た後、僕の目を見て軽く首をかしげた。座っていいか、ということだと了解した僕は、手で「どうぞ」と席を勧める。両手がふさがり、スマホを操作できない「口がふさがれた」状態の彼女につられて僕まで無言になってしまうのが、何だかおかしかった。

 僕がショールを拾ってあげたときのように、彼女はぱっと花が咲くような笑顔になって、僕との間に空席をひとつ挟んでスタンド席に腰かけた。その空席には、彼女が抱えていた缶コーヒーの数々が置かれる。ブラック、微糖、カフェオレ、カフェラテ、なんとかマウンテンに深煎りなんとか……

 両手が自由になった彼女はいそいそとスマホを取り出した。

『さっき当たったので、お礼です。お連れの方にもどうぞ』

「あ、ありがとうございます。あの……連れなんですが、実はさっき帰ってしまって……」

 ショーさんが帰ったことを僕が言うと、女性はきょとんとした様子だったが、どこか安心したような雰囲気もあった。さっき僕といるところにショーさんが現れたときも警戒したような顔をしていたから、派手で(よく言えば)活発そうな外見からの第一印象より、この女性はショーさんのようなタイプの人が苦手……つまり、けっこう大人しい人なのかもしれない。

『そうなんですね、残念。じゃあ、お好きなものをいくつでもどうぞ』

 女性はちょっと残念そうな顔をしたが、それがここにいないショーさんへの社交辞令だとわかるくらい、次の瞬間にはまた明るい笑顔に戻って僕にスマホの画面を示した。

「え、いくつでも、って……さすがにそれは悪いような……」

 女性はぶんぶん首を横に振って、また僕に笑顔を向けてくる。

 まあ、缶コーヒーをもう買ってくれているわけだし、持って帰らせるのも重そうだし……

 そう考えるともらわないと悪いような気がしてきて、僕は女性が飲まなさそうなブラックや深煎りなど甘くなさそうな順で、コーヒーを半分もらった。さっそくブラックの缶を開ける。

「じゃあ、お言葉に甘えて……いただきます。」

 僕がコーヒーの缶を口に運ぼうとすると、女性は残った中からカフェオレを開けて、笑顔で缶を僕の方に差し出して来た。口が無音で動いている。最初に大きく開けて、閉じて、今度は「ぱっ」と音をさせて開けて、最後は歯を見せて口が横に広がって。「かんぱい」と僕が理解するのには数秒かかった。

「あ、ああ、すみません。乾杯……」

 なぜか競馬場のスタンドで缶コーヒーの乾杯をして、僕はブラックを口に含んだ。まだ日差しに熱さのある季節に、よく冷えたコーヒーの舌触りと、ちょっと酸味のあるキリッとした苦味が、慣れない相手(しかも女性)に気を遣われて緊張していた僕の神経に、すっきりとしみわたってく。

 ほう、とため息が出た。今度のは、今日ずっと出っぱなしだったため息とは違う手のものだ。しかし、視界の端にいつの間にか現れていたスマホに気付いて、コーヒーの冷たさと心地よい苦味に身を任せそうになっていた僕の意識は、すぐに京都競馬場のスタンドに引き戻される。

『お連れの方がお帰りなら、ご一緒してもいいですか?』

 意外な申し出に、僕は思わず彼女の顔を見た。その顔はやっぱり笑っていて、気が強そうな目つきなのに、とても人懐っこそうだった。

「え、ええ……いいですよ。あの、そちらさえ、不都合でなければ。」

『ありがとうございます。お名前、聞いてもいいですか?』

 声が出ないのに、彼女のおしゃべりに僕は圧倒されそうだった。ただ、スマホでの筆談となると、彼女の言葉はどうしても細切れになる。それが、僕にちょっとだけ、考える余裕をくれていた。

「ああ、名前。僕、黒木っていいます。」

 彼女が首をかしげながらスマホを差し出してきたので、僕は黒木俊介、と、漢字を入力した。他人の携帯を触るのは、ちょっと緊張する。

『私は青柳(あおやぎ)はるかといいます』

 てきぱきと自己紹介をした女性、もとい、青柳さんは、ぺこりと頭を下げた。僕も慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げる。

『ちょっと聞きたいんですけど、黒木さんって』

 青柳さんがそこまでで言葉を切って、また入力に戻ったことで、僕は「何か聞かれるな」と心の準備ができた。なかなかどうして、青柳さんは筆談が上手だ。超ハイペースな「おしゃべり」筆談に最初は圧倒されそうになった僕も、これならついていけるかな、と思い始めた。でも。

『黒木さんって、プリマヴェラのファンの方ですよね?』

 思わぬ角度からの質問に、僕の思考が一瞬止まる。

「え! え、ええ……そうですけど……何で。」

『私も、プリマヴェラのレースには全部、行ってたんです』

『黒木さんを、何度もお見かけしました』

 僕はまじまじと青柳さんの顔を見つめてしまった。僕は、彼女と今日初めて会った。それは間違いない。でも、彼女の方は、僕をずっと知っていたのか。ニコリとまた青柳さんに笑いかけられて、僕は慌てて彼女の顔から目をターフに向ける。

「そ、そうだったんですね……じゃあ、青柳さんは今日……」

『フレースベルクを見に来ました』

「やっぱり、そうだってんですね。」

 さっき第三レースのときに見た青柳さんが退屈そうにしていたのは、きっとそのせいだ。フレースベルクを見るために彼女は今日ここに来て、ゴール板がよく見えるスタンドの最前列の席を確保していたのだろう。

 そう思うと、僕に缶コーヒーをごちそうしてくれるために、ちょっと離れたこの席に移動してきてもらったのは申し訳なかった。

『黒木さん、プリマヴェラのデビュー戦で、ものすごいガッツポーズしてましたよね?』

 そこまで見られていたなんて。

「え、ええ……僕、そんなに目立ってましたか?」

『はい、とっても!』

 青柳さんは、声を立てずに肩を震わせて笑った。

『でも私、すごく嬉しかったです』

『プリマヴェラを見てる人がちゃんといて』

 僕もちょっと嬉しい、というかむしろ、あのデビュー戦で僕以外にもプリマヴェラに注目した人がいたことに驚いた。

「……青柳さんって、牧場関係者とかですか?」

『違いますよ、ただの競馬ファンです』

 青柳さんはずっとにこにこしている。

 ショーさんに連れられてやってきた、プリマヴェラの弟のデビュー戦の日。そこで偶然、風に飛ばされたショールを拾って、自分と同じ、プリマヴェラを見続けてきた女性と出会う。

 運命の出会いとか、そういう甘い出来事に浮かれるたちでない僕でも、青柳さんと話すうち、ちょっとこれはすごい偶然だな、と思い始めていた。

 何でも、青柳さんは僕と同じようにプリマヴェラのデビュー戦(あのレースを「運命の出会い」と青柳さんは称した)にいて、その後のプリマヴェラの出るレースは全て観戦したという。

「でも、ちょっと恥ずかしいですね。同じように競馬場に通ってたのに、僕は全然、青柳さんに気付いてなくって。」

 僕はあまり顔覚えが悪い方でもないのだが、青柳さんが覚えてくれるくらいに頻繁に近くで観戦したのに、僕の方は青柳さんを覚えていない。どれだけプリマヴェラばかりを見ていたんだ、と以前の自分がちょっと恥ずかしかった。

『だって黒木さん、プリマヴェラしか見てない、って感じでしたもんね』

「……すみません。」

『いえそんな!私も熱心な黒木さんに、いい刺激を受けてましたから』

 筆談のせいかもしれないが、話せば話すほど、青柳さんはギャルっぽい見た目の割に、整った物言いをする人だった(言葉遣いに気を付けているギャルには悪いけど)。

 同じ競走馬を追いかけていたとあって、青柳さんと僕は話が合った。思っていたより話が弾んだせいで、僕は自分が避けようとしていた話題に話が向かっていることにも気づかなかった。

『ところで、黒木さんにとって、忘れられないレースって、ありますか?』

 不意にやってきた青柳さんからの質問。いや、それはきっと不意ではなくて、ちゃんと話の流れに沿った中で出てきた質問だったのだと思うが、僕はその質問とともに脳裏によみがえった光景のせいで、そのときどんな話をしていたかなんて忘れてしまった。


「これは何ということだ! 後は一団だ、何が出る、何が出る!」


 お化けのようによみがえった、去年のあの日。歓声が悲鳴に変わり出す瞬間のスタンド。

 あの運命の秋華賞の日の記憶が、さあっと僕の脳内を流れて行った。


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