ショーさん帰る

 ショーさんの厄介な誤解とうるさい詮索をかわしたり訂正したりしながら、僕はショーさんと第四レースのパドックに向かった。

 円形の小道に囲まれた広場のようなパドックを、次に出走する馬たちが担当の厩務員さんに引かれて周回している。

 それが間近に見える場所に来たら、ショーさんの意識は僕のナンパ疑惑から本来の目的である競馬へと戻る。

「どや、黒木。俺は六番が来ると思うんやけど。」

 ショーさんは六番のゼッケンをつけた馬を指さし、歩き方がどうのとか過去の成績がどうのと言い始めた。掲示板でオッズを確認すると、どうやらその馬は八~九番人気。競馬の予想に明るくない僕にも、あまり「よさそう」には見えなかった。

「お前はどの馬がええと思う?」

 ショーさんはやや期待を込めた目で僕を見て来る。プリマヴェラを見出して以来、ショーさんは僕を一種の「穴馬発見器」として見ている節があった。

「……成績とかわからないですけど、二番がいいんじゃないですか?」

 僕は何となく、きびきびと歩いていて毛ヅヤのいい馬を指さした。

「アホ、バリバリの一番人気やないか。」

「……すみません。」

 強いから人気になるのに。少なくとも、ショーさんの言った馬よりは確実に強そうな馬を選んだだけで、何で責められなければならないのか。こういうときに思わず謝ってしまうのも、僕の悪い癖だった。

 ふう、と、またもため息。

 帰りたい。

 そんな僕の気持ちが天に通じたのか。僕はポケットに入れた携帯が振動するのを感じた。

「ちょっと、すみません。」

 僕はショーさんに一言断りを入れて、パドックから少し離れて電話に出た。出る前に見えた画面に出ていた名前は「三浦史歩」。ショーさんの彼女だ。

「ゲンに代わってくれない? 携帯の電源が切れてるのよ。」

 耳に当てた携帯からは、ちょっと低い、常に寝起きのようなシホさんの声が聞こえてきた。挨拶もそこそこにそんなことを言われた僕は、その声のトーンから、シホさんがかなり怒っていることを察した。

 ちなみに、ショーさんのフルネームは東海林元太。「ゲン」とはショーさんのことだ。

「ちょっと待ってください。」

 僕はそう言うと、速足でショーさんのもとに引き返した。ショーさんの肩を叩くと、ショーさんはうるさそうに振り返る。

「何やな。」

「シホさんからですよ。」

「は?」

 ショーさんはきょとんとした顔で、僕が差し出すままに携帯を受け取った。

「何や、シホか?」

 彼女という存在に、高校卒業以降縁がなかった僕には理解できないくらい鬱陶しそうに、ショーさんは後輩の携帯にかかって来た彼女からの電話に出た。

 そしてその一瞬後、ショーさんは慌てて僕の携帯を耳から遠ざけることになる。

 僕の粗末なガラケーのスピーカーで変なコンプレッションがかかって、何を言っているかはよくわからないが、シホさんの怒鳴り声がショーさんの耳をつんざいたようだった。

 周囲の人たちが迷惑そうに僕らに白い目を向け、パドックの柵の内側に直立する「お静かに」の札を持った警備員さんも、目だけをじろりと動かして僕らを睨む。歩いていた馬に影響がなかったのは不幸中の幸いだった。

 ショーさんは慌てて、僕の携帯を持ってパドックを離れた。携帯の持ち主の僕を置いて近くの売店の陰に駆け込み、見えない誰か(もちろんシホさん)にぺこぺこと頭を下げている。

 また、何かしたのかな。

 ショーさんとの付き合いが長い僕は、そんなショーさんを見ても、そう驚かなかった。ショーさんが同居しているシホさんを怒らせるのは、そんなに珍しいことではなかったから。

 やがてシホさんとの通話を終えたショーさんは、負けを取り返すと息巻いていたさっきまでの様子が嘘のように、しょぼくれて戻って来た。

「……大丈夫ですか?」

「大丈夫ちゃうわ……」

 聞けばショーさんは今日、シホさんと出かける約束になっていたのだが、昨夜飲み過ぎて忘れてしまっていたらしい。僕を誘ったのが先か、シホさんとの約束が先なのかはわからないが、先輩とはいえそれでよく社会人が務まりますね、と言いたくなる。

「あの、僕が言うのも何ですけど、すぐ帰って謝ったほうが……」

 ショーさんはだまってうつむいていたが、ふう、とため息をついて、僕に手を合わせた。

「すまんな、黒木。付き合わしといて。」

 さすがのショーさんも、ここで謝るくらいの常識はある。「付き合わせた」という自覚があることも判明した。

「じゃあ、僕ももう……」

 駅につながるゲートへと向かおうとしたショーさんに、僕がついて行こうとすると、ショーさんは慌てて僕を押しとどめた。

「いや、待て待て。お前はもうちょっと、ここにおれ。」

「何でですか?」

「せめて、これ見てから帰ったらええ。そのために俺は今日、お前を誘ったんや。」

 ショーさんは、持っていたスポーツ紙を僕に押し付けた。今日通算三回、僕の脳天を直撃した新聞だ。開かれていたのは今日の昼過ぎ、第五レースの面だった。


 プリマヴェラ全弟ぜんてい、無敵か。


 第五レースは新馬戦。そのレースを予想する記事の見出しが目に入る。

「これ……」

「お前、きっと見たいんちゃうかと思ってたんや。お前、からずっと元気なかったしな。」

 ショーさんはそれだけ言うと、「ほな」と言って足早にゲートに向かって行った。

 新聞を手に残された僕は、しばらく呆然とショーさんの後姿を見送ってから、改めて新聞に目を向けた。

 去年の秋から競馬関連のニュースに全く触れていなかったから、僕は知らなかった。プリマヴェラと同じ両親から子馬が生産されていて、今日その馬がデビューするということを。

 プリマヴェラの、弟……

 正直言って僕は、プリマヴェラの弟だからといって、あまり興奮は覚えなかった。その他大勢の馬より若干関心があることは否定しないが、プリマヴェラに魅了されたのと同じ感覚で僕がその馬に肩入れできるかというと。答えはきっとNOだ。

 でも、その馬を見たいかどうかはともかく、僕はショーさんの心遣いに感謝した。

 ガサツだガサツだと心の中で文句ばかりだった自分が、ちょっと情けない。いつも通りのガサツさでショーさんは、落ち込んだ僕を心配し、無理やりにでもここに引っ張って来てくれた。

 結局のところは僕の方が、ショーさんの気持ちなんか全然考えていなかったということだ。

 僕は改めて、第五レースの予想記事を読んだ。


 注目はやはり⑫フレースベルクだろう。小柄だった姉プリマヴェラより体格に恵まれ、調教での動きも文句のつけようがない。力があり、馬場状態も問わない。距離も適距離……


 他の馬がそんなにダメか、と思うくらい、プリマヴェラの弟を褒めちぎる記事だ。別の注目馬の陰になって誰の注意も向けられていなかったプリマヴェラとは対照的な扱い。

 僕の中では、まだ見もしないのに、フレースベルクというその馬は姉のプリマヴェラよりも、あの新馬戦でプリマヴェラの前を歩いていた立派な馬のイメージと重なった。

 でも……せっかくショーさんが呼んでくれたのだから、見るだけ見てみよう。

 僕はそう決めて、とりあえずさしあたって用のない第四レースのパドックを離れた。

 もっとも、プリマヴェラの弟にそれほどの興味が湧かないことには変わらない。それほど、去年のあの日から、僕の目に映る競馬場の風景は変わってしまっていたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る