画面に踊る言葉

 笑顔を見せたその派手な女性は、無言で頭を下げる。僕はショールを手渡した。女性は頭を上げると、僕に何かを言った……らしかった。

 あれ?

 耳の調子がおかしいのだろうか、女性の口は動いたように見えたのに、彼女が何を言っているかはわからない……というより、何も聞こえない。

「あ、あの……」

 困惑する僕に、彼女は無言の笑顔のまま、右の手のひらをかざした。ちょっと待って、ということだろうか。僕が黙ると、彼女はジーンズの後ろのポケットからスマホを出して、何か入力し始めた。

 メールやアプリを始終開いていそうなギャルっぽい外見にたがわず、スマホの操作には慣れているようだ。彼女は入力を素早く終えると、スマホの画面を僕に見せてきた。

『拾ってくださって、ありがとうございます。』

「え……ああ、いえ、あの……」

 状況が読めず、どういたしまして、がすぐに出ない僕をよそに、彼女はまた、スマホに入力を始める。

『すみません、私声出ないんです。耳は聞こえます。』

「へ?」

 あまりに意外で急な情報に、僕の頭の回転は一瞬止まった。が、すぐに思考は追いついて来る。頭がまた回転を始めたとき、僕は思わず頭を下げていた。

「すみません、知らなくて。」

 初対面の赤の他人なのだから、彼女のそんな特殊な事情なんて僕は知らなくて当たり前なのだが、それでも、声が出ないなりに「ありがとう」と口を動かしていた彼女に怪訝な目を向けてしまったことは、謝っておきたかった。彼女の派手な外見を警戒する気持ちは、申し訳なさで吹き飛んでしまっていた。女性は困ったように笑いながら、首を横に振った。

『頭を下げるべきなのは私です。謝らないでください。』

 こまめに画面に言葉を入力しなければ話せない彼女は、一言ずつ、目にも止まらぬ指さばきで言葉を「発し」ては、僕に見せてくる。

『これ、お気に入りなんです。本当にありがとうございます。』

「いえ、気にしないでください。僕はただ……」

 すぐ近くまで行って拾っただけです。

 そう言おうとした僕の言葉は、背後からの声で遮られた。

「黒木、ここにおったんか。」

 ショーさんだ。

 やばい。僕はとっさに身を硬くした。ショーさんは競馬が好きなのと同じくらい女性も好きだし、身近な人間の色恋沙汰には目がなかった。

 僕のすぐ近くにいる若い女性を見て、ショーさんの口角がぐいっと上がる。

「何や何や黒木……お前、油断も隙もないな!」

 あちゃあ、と頭を抱える僕の視界の端で、女性の表情がみるみるこわばっていった。僕はとりあえず女性に会釈をしてから、ショーさんを引っ張ってその場を離れることにした。

「どうしてん、そんな照れんでもええやろ。でもまさか、黒木があんなイケイケなお姉ちゃんをなあ……」

「だから、違いますって!」

 女性から十分に離れた別のスタンド席まで行ってから、まだ僕が女性をナンパしていたと思い込んでいるショーさんに僕は、「吹き飛ばされたショールを拾って持ち主の女性に渡しただけ」という話をかみ砕いて聞かせた。これで五回目。

「そんな否定せんでもええやろ。ええか、ああいうお姉ちゃんは、外見はイケイケやけど意外とピュアなとこがあるからな。」

 もうこれは、説明しても無駄だ。

「……始まりますよ。」

 ため息の回数を数えるのはもう無理だ。ショーさんの注意を逸らすべく、僕はスタンドのはるか向こうの、コースの隅っこにある第三レースのスタート地点に集まり出した競走馬たちを指さした。ショーさんは単純な人で、「おっ」と言って立ち上がり、スタンドの柵に身を任せながら遠くのスタート地点を凝視し始めた。

 その隙に僕は、さっきよりもちょっと遠くなった、スタンド最前列のあの席に目をやった。あの女性はそこに座って、ヒールを履いた足をふわふわぱたぱた動かしながら、退屈そうにターフを見ていた。

 僕と同じように、誰か競馬が好きな人に付き合わされているのだろうか。だとしたら、ハンディキャップを抱えた人を一人残してどこかに行ってしまうその連れは、ショーさんみたいに無神経な人かもしれない。

 しかし、いよいよレースが始まるというときになっても彼女がずっとそうしているところを見ると、どうやら彼女は一人で来ているらしかった。若い女性にしては珍しい。

 というより、一人で競馬場に来るほど競馬が好きなら、なぜあんなに退屈そうにしているのだろう。

 そんなふうに考えていると、本日三度目の脳天への「パコン」という乾いた柔らかい衝撃。

「お前、違うとか言うてガン見しとるやないか!」

 いつの間にか第三レースは終わっていて、ショーさんがにやにやしながら僕の視線の先にいるあの女性と僕の顔に、交互に無遠慮な視線を向けていた。

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