秋風
「おい、おい黒木!」
ぼんやりと去年までのことを考えていた僕は、ショーさんにまた新聞で頭を叩かれて我に返る。
「すみません、ぼーっとしてました。」
「何やねん、しっかりせえよ。眠いんやったら、座っといたらええわ。」
次の第三レースのパドックを見に行くというショーさんは、笑ってスタンドを後にする。帰らせてくれるという選択肢がハナっから存在しないのも、ショーさんらしい。
スタンドに残された僕は膝の上に頬杖をついて、特に見るともなく、目の前に広がる美しい緑のコースに目をやった。ついさっき、第二レースで競走馬たちが地響きを上げて駆け抜けた場所と同じ場所であることが嘘のように、豊かな芝が風に揺れるターフは静かで、のどかだった。
なのに。
「これは何ということだ! 後は一団だ、何が出る、何が出る!」
平和な緑の人工の草原に、それを見る人々の悲鳴。衝撃を受けたことを隠す余裕もない、実況者の声。
思い出したくもない去年の「あの日」にタイムスリップしそうになった僕は、慌ててターフから目を逸らした。
その時だった。
一陣の風がスタンドを強襲した。男の僕が、思わず身をこわばらせて耐えようとするくらいの強風だ。
「きゃっ!」
スタンド下の芝生の観戦スペースにいた子供連れの一団が、慌ててレジャーシートを押さえる。と、そんな小さな騒動と、スタンドにいた僕のちょうど間を横切るように、淡いピンク色のものがふわりと空中を滑って行った。
ちょうどターフから目を逸らしていた僕には、それがスタンドの最前列の席に置かれていたショールだとわかった。僕の席から近いその席に置かれていたショールが強風にあおられて、上に置かれたお茶のペットボトルを振り払って飛んで行ってしまったのだ。
これが新聞やホットドッグの包み紙なんかだったら、僕は放っておいただろう。でも身に着けるものとなると、やはり持ち主は困るはずだ。あいにく、周囲にはやや酒の入った年配の人たちや、子供と同時にレジャーシートの面倒まで見るはめになった若い親たちしかいない。僕以外誰も、飛んだショールに注意を払う人がいなかった。
僕は仕方なく立ち上がり、少し離れたコンクリートの通路に着地したショールを捕まえに行った。幸い突然の風はさっきの一回だけで、ショールは大人しく僕を待つようにそこにいた。
その薄い布を拾い上げると、ふわりと鼻先をかすめた柔軟剤の香りと柔らかな布の手触りに、僕はちょっとテンションが上がった。何せ僕の身近にいる女性というのは、家で常にTシャツやスウェットで過ごすガサツな姉だけなのだ(会社にも女性社員はいるが、僕の部署は男ばかりだ)。軽くて柔らかく、つやつやとした絹地に淡いピンクと紅色の花がプリントされた上品なそのショールを手に取った僕は、ああ、おしゃれに気を遣う常識的な女性って、ちゃんと世の中にいるんだな、と実感した。そして改めて、女性に縁のない自分に苦笑してしまった。
肉食系とはお世辞にも言えない僕だ。そんな僕でさえ、まだ持ち主が誰かもわからない(ショールがあった席の主は、ずっと席を立ったままだった)ものを手に、こうして女性のことを考えてしまうくらいだから、男と言うのは単純な生き物だという世間の女性の大半がもっているという持論は間違ってはいない。
そんなことを考え、また苦笑してしまいつつ、元の席に戻ろうと僕は振り返った。
すると、すぐに一人の女性が目に入った。タイツじゃないかと思うくらい細いジーンズに、半袖というよりノースリーブに近い、ひらひらした飾りのついた明るい黄色のブラウス。波打った明るい茶色の髪。やけにすらりとした立ち姿だと思えば、靴は中の足と地面の角度がほぼ垂直なんじゃないかと思えるほど高いハイヒールだった。後姿だけで、僕はその人が「自分の苦手なタイプの女性」ではないかと警戒した。
学生時代の姉を筆頭に、派手な格好の女性にはあまりいい思い出がない。
でも、その女性に知らんぷりを通すことは僕にはできなかった。彼女は僕の席の近く、スタンド席の最前列で、後ろの席や近くの通路を窺うように辺りを見回していたから。
僕は、ふうと小さくため息をつき、女性に歩み寄った。何てため息の多い日だろう。女性のところに行くまでの数メートルを歩く間、僕の脳裏に、ポーチを拾ってあげたのに僕を「きもい」呼ばわりした高校時代の派手な格好の同級生の女子の顔がよみがえる。
そのせいか、女性の近くまで来ても僕の声はのどにつっかえて、すぐには出てこなかった。
「あ、あの……」
蚊よりも弱い虫が鳴くような声を僕が絞り出すと、スタンドの段差の下に目を落としていた女性が、ふと顔を上げた。想像していたより化粧は薄いが、しかし、やや強い目つきの彫りの深い顔が僕を見上げる。顔つきのせいなのだろうが、まるで睨むように鋭く光る大きな目に、僕はたじろいだ。
でも僕の手にあるショールを見るが早いが、僕が口で事情を説明するよりもずっと簡単に、彼女はすぐさま全てを理解したようだった。やや吊り上がった大きな目に宿った鋭い光がいくらか和らぎ、やや日本人離れした顔が、まぶしいほど白い歯を見せてぱっと笑顔を咲かせた。
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