夏日
そもそもの始まりは、二年前の十月だった。
このまま夏が終わらないんじゃないかと思うほどのカンカン照りの太陽に、腕がジリジリ焼かれるのも構わず、いつものように京都競馬場にいた僕とショーさんは、その日にデビューを迎える二歳の馬たちのレース「
レース前に馬たちの様子を見るパドックはいつも熱心な予想家や、万馬券を狙うショーさんのようなギャンブラーたちでにぎわうものだが、その日は少しいつもと勝手が違った。
その日にデビューする馬というのは、当たり前だが、今までの成績データはない。つまり、新馬戦はある意味で「何があるか全くわからない」レースとも言える。強い親馬から生まれた馬や、担当する調教師が自信たっぷりのコメントをした馬、成績のいい騎手が乗る馬など、ある程度注目を集める馬はいるが、それでも、どこにどんな文字通りの「ダークホース」が隠れているかわからない。だから競馬場に来ているファンはたいてい、新馬戦では全ての馬の様子をパドックでチェックする。
なのにそのときのパドックでは、だれもが一頭の馬をじっと見ていた。父親も母親も大レースを勝った名馬で、その年デビューする馬の中でも逸材と言われた馬だ。今でもその馬は、強い馬として大きなレースに出ている。
だが、ショーさんを含めて周囲がみんなその立派な黒い馬に見入る中、僕はその馬のすぐ後ろを歩く痩せた栗毛の馬に目を奪われていた。
「見てみい、あのちっこいの。あんなん、まだレースに出したらあかん馬ちゃうんか。」
ショーさんはそう言って、新聞にあるその馬の欄を赤ペンで真っ二つにしたけれど、僕はもう、ショーさんの言葉に愛想笑いを返すことも忘れるくらい、その馬が気になって気になって仕方なかった。
人気のある立派な馬の後ろにいるせいで、小柄で痩せたその馬は、いっそうみすぼらしく見える。おまけに、他にも分厚い筋肉のついたたくましい体の
外見の差、力の差は明確に見えた。
巨大な電光掲示板で表示されるオッズ(その馬が勝った場合の払い戻し倍率)も、一番人気の馬が一・二倍なのに対し、その小さな馬のオッズは二百倍以上。
そんな痩せ馬に、僕が惹かれた理由。
それは「目」だった。
デビューを迎え、初めてパドックという大勢の人間に見られる場に連れ出された二歳の若い馬たちが、落ち着きなくきょろきょろとしている中、その痩せ馬は、前を行く黒馬だけをじっと見ていたのだ。睨んでいたといってもいいかもしれない。
少なくとも、僕が見ている間は一度も、痩せ馬は黒い馬から目を離さなかった。
馬たちがレースで走るコースに入るためパドックを後にしたとき、僕はショーさんに、その馬について思ったことを説明しようと試みたのだが、ショーさんには笑われた。僕がショーさんの立場だったとしても笑うだろう。強さが約束されたような血統のエリート馬より、血統も体格もはるかに見栄えのしない痩せた牝馬の「目」が気になるなんて。
でもその後のレースで、京都競馬場は大きなどよめきと悲鳴に包まれることになる。
そのレースの実況は、まだ僕の耳に焼きついている。
「各馬、コーナーを曲がって直線に向きました。ブラックオーシャン、早くも先頭。これは楽勝か……おっと!」
一番人気の黒馬が、最後の直線に入ると同時に先頭に立ち、他の馬をぐんぐん引き離す。数々の栄光の舞台に立った両親と同じような輝かしい未来の序章が、今ここで幕を開ける。
そんな決着を誰もが予想していた。
が、直線に入り、黒馬が先頭に立った数秒後に、怒号にも似たどよめきがスタンドを埋め尽くした。
「大外から一頭来る、何とプリマヴェラ、プリマヴェラ来た!」
プロの実況者が声を上ずらせるほどの衝撃だった。後ろの馬をぐんぐん引き離そうとしていた人気馬・ブラックオーシャンを、痩せっぽちの牝馬・プリマヴェラがあっという間に抜き去り、みんながブラックオーシャンに期待していたくらいの差をつけて、力強くゴールを切ったのだ。
予想が当たったとか、そういう喜びじゃない。
何か、とてつもなく熱く、もっと切実な感情がこみ上げて、僕は思わず拳を高々と掲げて歓声を上げていた。
それからというもの、僕はすっかりその痩せ馬プリマヴェラに魅了されてしまった。
そして、そんな僕の期待は裏切られることがなかった。
時間が経てば経つほど、衝撃のデビュー戦を「まぐれ」「何かの間違い」と言っていた人たち(ショーさんを含めて)も、プリマヴェラへの評価を訂正せざるを得なくなった。
何せその後プリマヴェラは、格上のレースをどんどん勝ち進み、ついには二歳牝馬のチャンピオンを決める「阪神ジュベナイルフィリーズ」で優勝してしまったのだから。
それからもプリマヴェラの快進撃は続き、三歳になってからは権威ある「
その運命のレースがあったのが、去年の秋の京都競馬場だった。
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