競馬場の朝
土曜日の朝は、すっきりと晴れていた。
布団を上げて、朝食をとり、昨夜取り込み忘れた洗濯物をリビングに放り投げ、身支度を整え。
そうして僕が忙しく動き回る中、リビングのソファの上では姉が、買いためた海外ドラマのDVDをかけっぱなしにしていびきをかいていた。リビングとつながったキッチンで僕が無遠慮に音を立てて料理をしても、僕の放った洗濯物が誤っておなかの上に落ちても、姉は目を覚まさない。
同居し始めてしばらくの間は、旦那とケンカして飛び出して来た姉に僕も気を遣っていたのだが、最近はただのふてぶてしい居候として扱っている。
だから玄関のドアを閉めるときも、僕は別にそうっとは閉めなかった。
駅に向かう道で、電車の中で、僕は始終ため息をついていたんじゃないかと思う。
外出して、小さい頃から変わらないガサツさの姉から離れたと思えば、行った先では同じくらいガサツな職場の先輩に付き合わされるのだからたまらない。
週末になると利用者が急増する
「おう、黒木。どないや、調子は。」
「……ええ、まあ……そうですね。」
まさか先輩に対して「眠いです、帰りたいです」などと言うわけにもいかないから、僕は言葉を濁した。
そんな僕の言葉の濁りに、ガサツなショーさんが気付くはずもない。「そうですね、って何やねん」と丸めた新聞で頭をはたかれ、僕はショーさんと、駅から伸びる大きな渡り廊下のような通路を歩いていく。
もう十月なのに、日が昇ると気温はぐんぐん上がる。まだ朝なのに、僕らの周囲には競馬新聞を握りしめたおじさんや、やかましい声で自分の予想をひけらかす学生のグループがいて、肌に感じる温度は上がるばかりだ。
何のことはない、いつもと同じような土曜日。競馬好きのショーさんに付き合わされる、普通の土曜日。
そうなるはずだったのだが、この土曜日を、僕は忘れないだろう。
そんな、後々に特別な日となる秋の日。
京都競馬場の一日が、今日も始まろうとしていた。
「あかんなあ、何でこんなあかんねん。」
競馬場のゲートをくぐって一時間後、レースを二つ連続で外したショーさんは、そう言って肩を落としていた。どうせ慰めなくても、数分すれば「次のレースは勝つ!」と言って燃え上がるような人だから、しょげた様子のショーさんに、僕は適当に無難な言葉を返すだけだった。
現にそんな短い受け答えをする間もずっと、ショーさんは手元のスポーツ紙から目を離さない。これがあと五分くらいで目が熱を帯びてきて、十分すればどの馬がいいとか、どうやって馬券を買えばもうかる、とかいう話を始めるのだから、何と言うか、ショーさんは人生を楽しめるタイプの人だな、と僕は思う。
競馬場では、普通三十分に一度のペースでレースがある。一日に一つの競馬場で開催されるレースは十二レース。それを第一レースからずっと、このよく言えば楽天家、悪く言えばガサツな先輩に付き合わされるのだから、ため息だって出るというものだ。
前は、もっとずっと楽しかった。
僕は何も京都にやってきて五年間、こうして無気力にショーさんの競馬観戦に付き合わされてきたわけではない。
実家の父が競馬好きだったからか、小さい頃に時々競馬場に連れて行かれた僕は、大人になるとわりと自然に、自分でも競馬を楽しむようになっていた。
京都の会社に就職し、そこにいた競馬好きの先輩ショーさんと競馬場に行くようになり。
馬券を買ってギャンブルとして競馬を楽しむショーさんと、馬の走る姿や、プロスポーツとしての競馬がもつドラマを楽しむ僕、という違いこそあったものの、かつて僕らはレースを観る興奮を共有し、熱く語り合ったりもしていたのだ。
そんな楽しかった日々が、去年のあの日、急に終わってしまった。
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