第4話「こんなの見せたら」

「つーたん!」

 謎の言葉を発し、影がカルブに抱きついた。

「つーたん! つーたん!」

 泣きじゃくる。

 それは幽霊でも何でもなく、生きている女性が白い服をまとっているだけだった。

 カルブはツタンカーメンに目を向けた。

「まさか……王妃様ですか……?」

 王は黙ってうなずいた。


 しばらくして人違いに気づいたアンケセナーメンは、恥じらいながら謝罪した。

 年は夫より二つ上だったか。

 やつれてもなお美しい顔立ち。

 赤く腫れても品のある眼差し。

 それでいて王妃様でございといったような傲慢さは微塵も感じられなかった。


「それで……あの……つーたんは……」

 アンケセナーメンの瞳が、作業台の上の膨らんだ布をとらえた。

 ふらり、そちらへ歩み出し、ゆらり、いかにも非力そうな手が伸びる。

「いけません! 王妃様!」

 カルブの立場で自分から王妃のお体に触れるわけにはいかず、王妃と作業台の間に自分の体を割り込ませる。


 ツタンカーメンの幽霊は、無意味と知りつつ全身で布に覆い被さって、ぷるぷると首を横に振っていた。

 死にたての新鮮な遺体から、永遠に生きるためのミイラへ。

 防腐処置の真っ最中である今は、もっともグロテスクな状態。

「こんなの見せたらアンケセナーメンは気絶してしまうっ」

 ツタンカーメンが悲痛な声を上げた。


「王妃様、王様の姿をお見せするのは……その……」

 グロいからとか、具体的にどうグロいとか、言えずにカルブは口ごもる。

「儀式に反します」

 その場の思いつきである。

「なら、せめて……せめてそばに行かせてください!」

「それは……」

 良いとも駄目とも言えなかった。

 ただ、こんな時間にこんなところまでたった一人で出てきた女性に冷たい言葉は言いたくなくて、カルブが動けずにいる間に、アンケセナーメンはカルブの脇をすり抜けて、夫の遺体にすがりついた。


 先ほどあれだけ泣いたばかりなのに、王妃自身が干からびそうな勢いでこぼれる涙が、遺体を覆う布に滲み込んでいく。

 ツタンカーメンの細い足の、骨折の跡のある辺り。

(乾かしている最中なのに)

 言うに言えずにカルブは目をそらした。

 ツタンカーメンの幽霊は、いつの間にか姿を消していた。


(王妃様には幽霊は見えないんだな)

 ファラオがカルブと話せるのは、孤独なファラオに同情したアヌビス神が力を貸してくれているから。

 アンケセナーメンとの会話には、どの神も協力してくれない。

(現世に影響を与えちゃいけないんだっけ。なのにオレだけオーケーってのはつまり……オレはそんなに無力ってことか?)



 いくつもの障害を持って生まれた赤子は、信仰に狂った先王アクエンアテンの目にはアテン神の生き写しと映り、この王子が本物のアテン神となってエジプト王国を治める光景を夢見た。

 しかし他の王族は、王子をひ弱な奇形児と笑った。

 故にアクエンアテンは、他の王族が神の写し身を差し置いてファラオの座を狙うことがないように、さまざまな工作を施した。


 新たな王になるために重要なのが、ならわしにのっとった、先王の未亡人との婚姻だ。

 そのためにアクエンアテンは長年連れ添った妻と別れ、アテン神の将来の妻にふさわしい少女を選び出し、自らの妻として形だけの結婚式を執り行った。

 それがアンケセナーメンだ。

 王妃アンケセナーメンをツタンカーテンと再婚させれば、ツタンカーテンへの王位継承はスムーズに行われる。


 つまりアンケセナーメンは宗教改革を巡る政争の具。

 前夫ともツタンカーメンとも政略結婚。

 だけどカルブの目の前で流れる涙は本物だった。


 アクエンアテンの、ツタンカーテン以外を王にしたくないという意志は強く、工作は徹底していた。

 そのツタンカーメンが子を残さずに死んだ今、跡を継げる王族はなく、アンケセナーメンの再々婚の相手がエジプトの次の王になる。



「王宮ではみんな、わたくしを悲しみから立ち直らせようとばかりして、誰もわたくしを悲しみに浸らせてはくれないのです」

 アンケセナーメンはひとしきり泣いてからカルブに打ち明けた。

「次の王を立てるために王妃は一刻も早く再婚しなければならないと言われて、ヒッタイトの王子との婚約も勝手に決められてしまいました。わたくしに断る力などありません。自分の書簡を偽造されても怒ることすらできないのです」

 そしてまた、すすり泣く。

「つーたんが死んでからまだ一ヶ月も経っていないのに……他の人を好きになれなんて言われても……わたくしは……どうすれば……」

 カルブの目には王妃はあまりに弱々しく映った。


「ヒッタイトの王子はエジプトにはおいでになりません」

「……どうしてそんなことをカルブ様が……?」

 ツタンカーメンに聞いたなんて言えない。

「そんな気がするだけです」

 アンケセナーメンは曇り顔に無理やりの微笑みを作ってカルブに答えた。

 逆に気を遣わせてしまったようだ。


「ミイラ職人って、大変なお仕事なのですね」

 アンケセナーメンの目は、棚に並ぶさまざまな薬品や、素人には意味のわからない器具の方を向いていた。

「カルブ様のおかげで、つーたんは安らかに旅立てるのですね」

 ありがとうとアンケセナーメンに言われて、カルブは明日も仕事を頑張ろうと決めた。

 脳みその意味や心臓の意味。

 カルブがどちらを信じても信じなくても、アンケセナーメンを安心させられるならそれで良い。

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