第2話「ザナンザ王子」

「おれ、ちょっとヤバイことやっちゃったんだよ。トート神の目を盗んで、見ちゃいけないって言われてたもんを見ちゃってさ」

「その話はオレが聞いても良いのですか?」

「うん。もう終わったし。おまえ、アンケセナーメンが再婚するって話、聞いた?」

「ええ。ヒッタイト王国の王子達の中から、誰でもいいから適当な方を婿に迎えたいと手紙を出されたとか」


 王妃アンケセナーメンは、ツタンカーメン王の妻。

 ツタンカーメンにはまだ子供が居なかったので、王妃様の再婚相手がエジプトの次の王になる。


 エジプト王国は前のファラオが行った宗教改革で内戦寸前にまで陥り、それをツタンカーメン王が鎮めた。

 そのツタンカーメンの死により国内が再び混乱に陥る恐れがあり、となればその混乱につけ込んで他国が侵略を仕かけてくるのも容易に予測できる。

 ならば長年の敵国であるヒッタイトとあらかじめ仲良くしておいて、そのヒッタイトに他の国から守ってもらうのは、うまい戦略であるようにカルブには思える。


 夫の葬式も終わってないのに再婚なんて、と、庶民の話であれば思ってしまうが、王族とはそういうものである。

 王妃からの手紙を受け取ったヒッタイトの王は歓喜し、今まさにザナンザ王子の一行がエジプトへ向かっている最中である。

 そこまで思い出してカルブは首をかしげた。


「オレの立場でも耳に入る程度のうわさが、知るのをトート神に禁じられるようなものなのですか?」

「いや、見ちゃいけないのはそれじゃなくって、夢枕に立つ方法が書いてある魔術書」

「他人の夢の中に出られるんですか?」

「道具が要る。トート神のを勝手に使った。バレて怒られて箱に鍵をかけられちゃったんでもう使えない」

「それは……残念でしたね……」

 王妃や側近など、話したい相手は大勢居ただろうに。


「で、ザナンザに夢の中で脅しをかけて、エジプト行きをやめさせた」

「へ?」

「アンケセナーメンに手を出したら呪ってやるって。ザナンザのやつ、エジプトに来るのは怖いけどヒッタイトに帰れば親父さんにどやされるってんで、そのまま姿をくらましちまったぜ」

「何でそんな……」

「だってあいつチャラ男だぜ?」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! え? え?」


 一般市民として漠然と思い描いていたエジプトの平和な未来図がガラガラと崩れていく。

 頭を抱えるカルブを眺め、ツタンカーメンは乾いた笑い声を響かせた後、不機嫌そうに腕を組んだ。

「政略結婚がしたいって手紙を出したの、アンケセナーメンじゃねーんだよ」

「じゃあ誰が?」

「わかんねーけど、たぶんおれの側近だろうな。アイとホレムヘブのどっちか」

「国のためを考えてのことでしょう?」

「本人の意思じゃないんだぞ!!」


 急に怒鳴られたカルブは、言葉の意味よりも、どうして自分が怒鳴られなければならないのかということのほうに駆られてカッとなった。

 こんなの八つ当たりじゃないか。

「王族なんて政略結婚が基本でしょう!? ツタンカーメン様とアンケセナーメン様だってそうだったじゃないですか!!」

「もしもあいつがおまえの嫁ならどう思うんだよッ!?」

「自分が王族だった場合のことなんて考えるだけ馬鹿馬鹿しいですっ!! アナタがただって自分が庶民だった場合のことなんて考えないでしょうっ!?」


 しばらく睨み合い、そのまま互いに沈黙する。

 カルブのほうが先に冷めた。

「ザナンザ王子は今頃どうしているんでしょう。もしアナタの夢枕攻撃をただの夢だと考え直せば、アナタはもう手出しできないわけですよね?」

「別の国に行こうとして迷子になっている」

「砂漠で迷子って!? シャレになんないっスよ!? もしザナンザ王子一行がそのまま野垂れ死にでもしたら……」

「死ぬってそんなに悪いことかよ?」

「!?」

 カルブは自分の目の前に居るのが幽霊なのだと改めて思い出した。

 そしてカルブの脅えた表情を見て、ツタンカーメンもまた自分が死者だと思い出したようだった。


「……壁画ギルドの宿舎でみんなを助けた時のアナタは、そんな悪いヤツには見えませんでした」

「自分のためだよ。おれの墓をきっちり造らせるためだ。もう意味ないかもしンないけどな」

 ツタンカーメンは、アヌビス神の像の台座に腰かけて、細い足をわざとらしくプラプラさせた。

「おれの心臓、マアト女神の羽より重くなっちまったかもな」

「知りません!」


 カルブはミイラに向き直った。

 作りかけのミイラ。

 幽霊のせいで作業が遅れてしまったが、今日は遺体から脳みそを取り出す日なのだ。

 腐りやすい脳みそを捨て去り、復活の日に備えて遺体を保存する。


 遺体の頭部を抱きかかえたところで、カルブは複雑な気持ちになった。

 頭部をこのまま傾けさえすれば、すでにドロドロになった脳みそは鼻の穴から流れ出るのだが……

「……どうすればいいんですか? このやり方が正しいって教えられて、ずっと信じてやってきたのに……」

「今まで通りにやっちゃっていいよ。どの道、今のエジプトでは脳みその保存なんてできないし」

「続ける意味なんてあるんですか?」

「おまえが役人に怒られないため」


 工房に充満する嗅ぎ慣れた薬品のニオイが、急に吐き気を催すものに感じられた。

 ツタンカーメンがゲラゲラと笑い出した。

 カルブは仕事を切り上げて家に帰ることにした。

 どの道、今日は朝から働きすぎた。


 カルブはツタンカーメンを取り残して燭台の炎を吹き消した。

 窓からはすでに夕日も去って、工房内は一瞬で暗闇に包まれたが、幽霊には気にならないのかファラオは笑うのをやめなかった。

 工房を出る時、見張りの兵士に、今日の独り言はこれまで以上に変だったがこれも儀式なのかと問われ、もちろんだと答えた。

 ファラオはいつまでも笑い続ける。

 カルブの耳にしか届かないその声は、ひどく不気味に響いていた。

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