必要だって言ってください

第1話「三千年後」

 それからしばらくの間、ツタンカーメンはカルブの前に現れなかった。

 遺体から内臓を取り出して乾燥させる職人の仕事を、ただ見ていても退屈になったのだろう。


 ミイラの作り方は職人によって異なるし、時代によっても変わってきて、その多くは企業秘密として伏せられている。

 脳みそをどの順番で取り出すのかも工房によって異なり、作業の一番最初に遺体の鼻から金属の棒を突っ込んで掻き出すところもある。

 カルブの祖父の流儀では、エジプトの気温がもたらす自然の腐敗に任せて軟らかくなるのを待って、遺体を傾け、ドロドロになった脳みそを鼻の穴から流れ出させる。


 ものを考えるのは心臓の役目で、脳みそは鼻水を作るだけの器官。

 だから捨ててしまっても死後の世界での永遠の命に影響はない。

 この時代のエジプトではそう考えられていた。


「三千年後の世界では脳みそが一番大事ってなってるみたいなんだけどな」

 不意に背後から声をかけられ、カルブが驚いて振り返ると、ツタンカーメンの幽霊の指先がカルブのほっぺたを……つつきそうになって触れられずにすり抜けた。

「トート神がね、いろいろ見せてくれたんだ」

 困惑顔でほほを掻くカルブに、ツタンカーメンはケラケラと笑う。

「おれの頭蓋骨、できるだけ丁寧に扱ってくれよ。余計な傷をつけたら後の世の学者先生に、おれが頭を殴られて暗殺されたなんて言われちまうからな」


 カルブはますます困惑した。

 神々の書記官の、人の体に鳥の頭のトート神は、知恵と時間を司る。

 ならばツタンカーメンは未来を見てきたのだろうか?

 それにしても脳みそが大事だなんて、カルブにとっては初耳だった。


 ツタンカーメンが作業台の横にしゃがみ込み、自分の遺体の奇形の頭蓋骨を指で小突いた。

 霊体の指はやはりすり抜けた。

「近親婚って、未来じゃ禁止されてたよ。子供がこうなる原因だからって。先に言っといてほしかったよなー。王家の聖なる血を薄れさせないためにーとか言って、さんざんくり返してきたからなー」

 腕を組み、スッと立ち上がって自分の遺体を見下ろす。


「三千年後の金持ちは、さらに未来で生き返るために、脳みそを氷で保存してるんだ」

「氷ねぇ」

 言われてカルブは首をひねった。

 氷なんてよっぽど高い山の上に行かなければ手に入らず、カルブも実物を見たことはないが、すぐに解けてしまうというのは聞いている。

 氷自体が保存できないのに、どうやって氷を使って保存なんてするのだろうか。


「あ。信じてないな。未来人は機械で氷を作るんだぞ」

「それが本当ならその機械の作り方を教えてください」

「ダメ。教えたらおまえ、それを作ろうとするだろ」

 そしてツタンカーメンは急にまじめな顔になった。

「神々の世界にもいろいろルールがあってな、現世に影響の出ることは教えてもらえないんだ。例えば、未来人はミイラも心臓もなくっても脳みそさえ残しておけば復活できるって考えてるなんて突拍子もない話を、おまえみたいな一介のミイラ職人に言いふらされても誰も相手にしないけど、おまえが実際に氷を作ったら皆はおまえの話を信じてしまう。だからダメ」


「ふーん」

 カルブは内心では興味心身だったが、あえて気のない声で答えた。

 ツタンカーメンの真面目顔が何だか気味悪く思え、つれない態度を取っていればまたバカっぽく騒ぎ出すかと思い、からかいを込めてそうしたのだ。

 しかし遺体の処置作業に戻りつつ横目で幽霊の様子を伺うと、ツタンカーメンは曇った表情のままだった。

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