第2話「おれの心臓」
ファラオの腸をヤシ油で洗って、ナトロンという塩のようなものをまぶして水分を吸い取る。
乾いたら亜麻の布で包んで専用の壷に入れるのだが、乾くまでには時間がかかり、その間に他の臓器に取りかかる。
次は胃だ。
「なー、カルブー。おれの心臓って軽いか?」
「そちらの処置をする順番はもっと後です」
「おれの心臓、軽いだろ?」
「まだわかりません」
「軽いよな?」
「不安なんスか?」
「不安じゃないやつなんか居ないさ」
ファラオの幽霊はムッとしてそっぽを向いた。
心臓には生前の罪が蓄積され、罪の分だけ重くなる。
神々が待つ冥界で、全ての死者は裁きを受ける。
アヌビス神が持つ天秤の、片方に死者の心臓を、もう片方に正義の女神であるマアトの羽を乗せて、神々の書記官のトート神が釣り合いを見る。
心臓が羽より重いと、心臓はその場で怪物に食われてしまい、死者の魂は天国に行けないしミイラを作っても復活できない。
「アテン神を崇めている場合はさ、アヌビス神もマアト女神も居なくなるんだ。怪物も出てこない。慈悲深きアテン神は……要するにお人よしだからさ、泣きつけばどんなとんでもない罪人でも許してくれるんだよ。だから先代のファラオは、歴代のファラオのようにたくさんの神々を奉るのを辞めにして、アテン神一人だけを崇めるようになったんだ」
「アクエンアテン様がそんなに悪い方だとは……」
カルブは軽く言いかけて言いよどんだ。
一般人の葬式ならば不安がる親族に適当な世辞を言って慰めるのも仕事のうちなのだが、先王には悪評も多い。
「人は皆、何らかの罪を犯してる。自覚があるかないかだけだ。
「ああ……いろいろうわさになってますね」
大神官アイは、エジプト中の全ての神官達の長。
しかしその地位は信仰心の篤さではなく、世渡りのうまさによって手に入れたものだといわれている。
可愛い名前に似合わない悪人顔のジジイである。
「太陽神ラー。冥界の主オシリス。神々のリーダーでもある豊穣神アメン。
エジプトには他にも無数の神々が居られ、それぞれに信者が居て神官が居る。
自分のところの神様が最高だって、思ってるのは別にいいよ。
でもそのために他の神様を蹴落とすような真似を、人間の側がしちゃいけない。
アメン神の神官は、他の神々の神官に傲慢な態度を取ることがある。特にアテン神の神官に、ね。
どちらもただの神官でただの人間なのに。
矛盾してるけどそんなことをしているアメン神官にこそ、お人よしなアテン神の加護が必要なんだ」
「本当に矛盾していますね」
「うん。堂々巡りだ」
「でもツタンカーメン様は、アテン神への信仰を放棄なされたのですよね? アイ様率いるアメン神信仰の神官達に言われるがままに」
ツタンカーメン王が生まれた時につけられた名前は、ツタンカー“テ”ン王子だった。
ツタンカアテン。
その意味は、アテン神の生き写し。
国全体がアメン神を筆頭にした多神教を奉る中で、もともと多神教の中の一人であり一地方の守り神だったアテン神を、先王アクエンアテンは異常なほど熱心に信仰し、それを国民にも強要した。
多神教から一神教へ。
エジプト中、世界中の諸々の神々への信仰を禁じ、アテン神のみを唯一絶対の神として崇めよ。
アテン神以外は神として認めない。
どちらが上か下かではなく、居ない。
唯一神の他には神は存在しない。
崇める神を一人にしても神官同士の対立は消えず、その強引かつ急速な宗教改革はエジプト国内に深刻な混乱をもたらした。
カルブの祖父はもともとのアメン神信仰を守りつつも、役人に目をつけられぬようミイラ職人の仕事はカルブの父に譲り、カルブの父には唯一神アテンを信仰するように、カルブにはどっちつかずであるように命じた。
アクエンアテンの死にともない、アクエンアテンに特別に目をかけられていたツタンカーテンは、わずか九歳でファラオの地位に着いた。
ツタンカーテンは幼い頃からアテンの神殿に預けられてアテン信仰を教え込まれてきていたが、しかし即位してすぐに大神官アイをはじめとする神官達から内戦を防ぐためと説かれてアメン神信仰に乗り換え、その際に自分の名前もツタンカアテンからツタンカアメン……ツタンカーメンに変えた。
「ちまたのうわさじゃそういうことになってるみてーだけどさ、別にアイ達に言われるままにってわけじゃねーんだぜ。だってほらカルブ、おまえ、アテン神がどんな姿か知ってっかよ?」
「もちろん。まだ像を残してありますよ」
工房の隣の部屋にはさまざまな神様の像が収められており、お客様の信仰に合わせて出したりしまったりする。
ツタンカーメン王のアメン神への改宗により、唯一神という考えは廃止された。
多神教の復権は、アテン神の信者への迫害を招き、カルブの父はテーベを離れ、祖父はミイラ職人の仕事に戻った。
祖父の工房にツタンカーメンのミイラ作りが託されたのは、祖父がアメン神への信仰を守り続けていたからである。
唯一神信仰に走った実の息子を追放したのも……実際は計算ずくでの独立だったのだが……宮殿の神官達からの高評価の要因となった。
多くの職人を抱える大きなミイラ工房には、今もアテン神を唯一神と称え続ける信者が隠れている可能性がある。
そこでは駄目だとアメン神の神官は言う。
多神教の中の一地方神としての昔ながらの信仰ならばアテン神を崇めても良いが、唯一神という考え方は許さない。
アテン神だけを特別視する信仰は、他の神々の存在を、他人が大事にしているものを否定して、争いを生むから。
よってカルブは、生まれた時には唯一神信仰が国教であったにも関わらず、生まれついての多神教信者のような顔をして働いている。
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