名前を呼んでほしいのです

第1話「なぁカルブ」


「ねェねェ、お風呂? ご飯?」

「ご遺体から腸を取り出しまして洗浄をばいたしまス」

 しつこく絡んでくる幽霊に、カルブはできうる限りの平静を装い、うやうやしく振る舞おうとした。

「つまりご飯とお風呂とおれのトリプル・アタック?」

 殴りたかった。

 殴れなかった。

 殴りかかる素振りすら見せられなかった。

 幽霊相手に無意味であるという以前に、この幽霊はファラオだから。

 そんじょそこいらの庶民の霊なら神殿に泣きついて助けを求めるのも考えられたが、相手はファラオ。

 我らがファラオ。

 偉大なファラオ。

 それが悪霊になって人ン家の工房に不法侵入しているなんて、よそで言えるわけがない。

 カルブはこの幽霊を無視しようと決めた。

 それ以外にカルブに選択肢などなかった。


 遺体の腹部に少しだけ切れ目を入れて、その切れ目に手を突っ込んで小腸を引きずり出す。

 本人の目の前で作業をするのは最初こそ緊張したものの、ツタンカーメンが自らの死を嘆くでもなくグロいグロいとバカ笑いするのを聞くうちに、カルブもだんだん気抜けしてきた。

「なぁカルブ」

 作業台の周りをふよふよとただよいながら幽霊が呼びかける。

「何でファラオ様がオレなんかの名前を?」

「表札に書いてあるじゃん。なーなー、カルブー」

「何ですか?」

「死体なんかいじってて怖くなんないの?」

「別に。幼い頃から祖父や父の仕事を手伝ってきましたから」

「でもこんなグチャグチャしてるし変な汁が出てるし」

「ちょ! やめてください!」

 カルブの作業の手がのろくなってくる。

「やっぱおまえも怖いだろ?」

「そんなことありません! 死体は友達! それが祖父の教えです!」

「そっちの方が怖えーぞ」

「ちょっと黙っててください。これから腸をきれいにするんですから、気を散らすことしないでくださいよ。失敗して傷でもつけたらアナタだって困るでしょう? 死んだ後でも使うんですから」

「腸はいいから心臓をやってくれよ、心臓」

「……王様」

 カルブはがっくりと肩を落とし、王の腸をいったん台に置いて、改めてファラオの幽霊に正面を向けた。


「ん?」

「こんなところで油を売っていないで、冥界へ行きたくないのならば、せめて王宮へお帰りください!」

「やだよ。王宮では今、おれを巡ってもめてるんだもん。歴代のファラオのリストに、おれのことを何て記すかでさ」

「だったらなおさら行かないとダメじゃないですか!」

「やーだよー。おれの幽霊姿が見れるのっておまえ一人だけなんだもん」

「そうなんですか? 何でです?」

「おまえがアヌビス神のお気に入りだから」

 なんと神様からの特別扱い。

 カルブは思わず舞い上がりそうになったが、すぐに疑問が沸いてきた。

「オレの祖父も父も立派なミイラ職人ですが、二人とも幽霊を見たなんて話をしたことはないです」

「ああ。顔がアヌビス神の好みじゃないみたいだ」

「そんな理由ですか!?」

 ちなみにカルブの父と祖父は年さえ違わなければ双子のようにそっくりで、カルブは母親似の繊細そうな顔立ちである。

「それにほら、おれは異例中の異例にして特例中の特例だからな。親父さん達にはそういう場面がなかったんだよ。とにかくそんなわけだから、王宮に戻ったって何にもできないし、居心地が悪いだけなんだ」

「…………」

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