第3話「逃げるなよ」

 騒動はほどなくして治まった。

 宿舎にあふれた悪霊は、お薬による幻覚だった。

 壁画ギルドの職人達は、あちこちぶつけて軽い怪我をして、集落の外まで飛び出してナイル川に落ちてしまった者も居たけれど、幸いにも近くにワニは居なかった。


 シェペネの煙が晴れて、ツタンカーメンは腰布を巻き直した。

 古代の時代のエジプトでは、男の衣服は腰布一枚というのが基本。

 それは王も職人も変わらないのだが……

 カルブの腰布は仕事で汚れるのを前提に、安い素材で必要最低限の丈しかない。

 対してツタンカーメンのものは、いかにも高級そうな見るからに柔らかい布で、たっぷりと取られたドレープがゆったりとしたラインを描きながら膝下までを覆い、足の奇形ぐらいではそこないようのないファラオの高貴な立ち姿を引き立てている。

 同じものをカルブが纏っても、きっと服に着られたようになってしまうだろう。


「んじゃ、また後でな」

 王が微笑む。

「は、はい……」

「逃げるなよ」

「はい!」

 ふわりと宙に浮き上がって飛び去っていく王の背中に、カルブは思わず見惚れていたが……


「悪霊なんぞが出るわけがねエ!! こちとら毎日キチンと魔除けの儀式をやっとるんでイ!!」

 壁画ギルドの親方が部下達をどやしつける声で我に返った。


 カルブはこの親方の部下でこそないものの、親方とカルブの祖父は古くからの付き合いである。

「もしもファラオが悪霊になってたら……」

 カルブはおずおずと親方に尋ねた。

「ああン!? 罰当たりなことを言うな!! 神官に聞かれたら不敬罪でしょっぴかれッぞ!!」

「ですよねー」

 それに……

 カルブはツタンカーメンの姿を思い出した。

 ツタンカーメンのパンツを……

 ではなくご尊顔を……

 職人達を助けるためにパンツ丸出しで頑張っていた少年王の表情を。

(あの方は悪霊なんかじゃない)



 カルブは自分の工房へ走った。

 見張りの二人組みの兵士……どっちかがアスワドさんでどっちかがアブヤドさん……にあいさつをすると、昨日の様子を不審がられた。

 兵士達もツタンカーメンの幽霊は見えないらしい。

 悲鳴を上げたのはミイラ作りのための儀式の一環だったと適当なウソをつき、カルブは背筋を伸ばして工房に入った。

「お帰りなさい、あなた! ご飯にする? お風呂にする? それとも、ア・タ・シ?」

 まぎれもないヤローの声で、キモイ言葉が飛んできた。

 ツタンカーメン王は口もとに指を当ててチョコンと首をかしげてみせた。

(やっぱりこいつ悪霊だ)

 カルブの額を汗が伝った。

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