第2話「息をするな!」

 悲鳴を上げて逃げ出したカルブは、ナイル川西岸のほとりの職人達の集落ディール・エル・メディナの片隅にある小さな宿舎に閉じこもり、自宅から持ってきていた小さめのアヌビス像を握りしめ、毛織の布団をかぶって何時間も祈り続けた。

(幽霊なんか居るわけないんだ……

 異国の伝承にはそういうものもあるらしいけど……

 このエジプトでは、死者は葬式のあと、冥界を旅して、神々の審判を受けて、楽園で永遠の命を得て……

 死者が復活するのはそのあとなんだ!

 まだ葬式も終わってないのに、幽霊なんかになって出てくるわけがないんだ!)

 そう教えられてきた。

 それなのにヤツは現れた。

「アヌビス神様、オレをお守りください……あいつは神々の裁きを恐れて冥界を逃げ出した悪霊に違いありません……」

 布団の中でブツブツとつぶやくうちに、いつの間にか眠ってしまって夜が明けた。



 お隣の、壁画職人のギルドの大きな宿舎が騒がしい。

 玄関には日除け布が張ってあるだけで、一般的な建物と同じでドアも鍵もなく、悲鳴や怒号がそのまま垂れ流されている。

「ええい、この悪霊め!」

 若い職人の叫びが響く。


 ドキリ。

 カルブの心臓が跳ねた。

(もしかして、オレが連れてきてしまったのか? そのせいでお隣に?)

 カルブは声のした建物に飛び込み……

 その直後に、自分の無鉄砲さを呪った。


 広い部屋に、大勢が雑魚寝するための布団が敷きっぱなしになっている。

 その中央に、彼は居た。

 幽霊は幻でなく存在し、見間違いでなくツタンカーメン王だった。

 王は悪鬼のような表情でカルブを睨みつけた。

「息をするな!」

 投げつけられた言葉にカルブは震え上がった。

 いかにファラオの命令でも、死ねと言われて従うわけにはいかない。


「ああ! あそこに悪霊が!」

「悪霊がそこにもこっちにも!」

 怯え切った職人達が、てんでバラバラの方向を指差す。

 部屋の隅、天井の角。

 その先に居るはずのモノの姿は、何故かカルブには見えない。

 それでいて部屋の中央、一番目立つ場所にたたずむファラオには、カルブ以外の誰も気づいていないようだった。


「いいから早く呼吸を止めて外に出ろ! こいつら毒ヘビ除けの香と間違えてシェペネの軟膏を火にくべちまったんだ!」

「うげえっ!?」

 慌てて回れ右してカルブは宿舎から飛び出した。

 シェペネという植物の実には皮膚病を治療する効果があるのだが、燃やして煙を吸うと幻覚を見て、錯乱状態におちいることもある、非常に危険な薬草なのだ。


 カルブは戸口の日除け布を引きはがし、宿舎の中をバサバサと扇いで換気した。

 隣を見るとツタンカーメンも腰布でバサバサやっていた。

 腰布をはずして、両手に持って。

 腰布を脱いだということは、パンツが丸出しになっているということである。

 ファラオのパンツは三角形の亜麻布で、この時代にはゴム紐はなく、普通の紐で結んで留めている。

 形状としてはフンドシに近い。

 ツタンカーメンはカルブの視線に気づいて頬を朱に染めた。

「何だよ」

「いえ、そのっ、幽霊が扇いで効果あるんですか?」

「シェペネの霊体カーを払ってるんだよ」

「なるほど」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る