その笑顔があれば、きっといつまでも

 幼子の笑顔がとても可愛いのは、やがて来る子育ての苦労を癒すためである。


 そんな話を聞いたことがあります。

 私たちには子供がいないので、その言葉を確かめるすべはありません。

 世界中に沢山いる子供のいない夫婦のうちの1組、ただそれだけのこと。

 ふたりとも見た目が若い(幼いのかも知れませんが)ので、よく「まだ諦めることはないわよ」などと言われるのですが、さすがにもうムリです。


 ひょっとしたら、婚約・新婚時代がとても楽しいのも、やがて来る家庭を持つ苦労を癒す意味があるのかも知れません。

 そう、あのときのハニーの笑顔も。


 平成18年弥生吉日。私たちは入籍しました。

 書類受付にはしばらく時間がかかると言われた私たちは、区役所の近所にある公園で少し待つことにしたのです。

 桜の季節。舞い散る花びらの中で微笑むハニーは、とても美しかった……


「……そんなに見つめたら、穴が開いちゃうよ」

「穴が開いたらヒモを通して柱にかけとくから大丈夫だよ」

「ひどーい、何が大丈夫なんだよっ」


 世界で最も有名と言われるロックバンドに、ドラッグをキメて書いたと噂される曲があります。その歌で繰り返されるサビ歌詞は、「〇〇(少女の名前)は空の上、ダイヤモンドと共に」(日本語訳;尻鳥雅晶)。

 その頃の私たちもまた、何かヤバイものがキマったような高揚した気分に満ちていました。


(あたま悪かったよねー)


 私たちは空の上で踊る。花と共に。



 入籍の次は、指輪の用意です。

 ハニーの知っている吉祥寺のアクセサリーショップにて、婚約指輪(ハニーのみ)と結婚指輪(ふたりとも)を作ります。私はポリシーとして、結婚指輪を常時着けようと思っていたので、それを考慮したデザインを希望しました。


「ということは、素材は金かプラチナですね。シンプルなデザインで。

 指輪の内側に、文字を刻むことができますが、いかがですか」


 お店のマダムの言葉に、私たちは額をつき合わせて相談しました。


「名前とかは、なしだよねー」

「ないない」

「かと言って、アイラブユーとかもつまんないし…… そうだ。ハニーは、

 イタリア語堪能だったよね。イタリア語でアイラブユーって何て言うの?」

「あのね、堪能ってほどじゃ全然ないからね! ……えーと、ティ・アーモかな。

 でもね、イタリアじゃ、あんまり使わないみたい」

「そうなの?」

「歌ではよく使われる言葉だけど」

「さすがイタリア人。だったら、他にもラブワードが色々あるんじゃないの」

「うーん、私の好きな言葉で、テゾーロ・ミオというのがあるけど」

「それ、どういう意味?」


 ハニーからその意味を聞いた私は、大きくうなづきました。


「それ、いいよ。だって、宝石も飾りもないシンプルなデザインなのに、

 わざわざそういう言葉を選ぶなんて、洒落てるよ!」

「どういうことよ?」

「つまり、宝石はどこだ、ああ、それが宝石なのか、って考えオチになるだろ」

「なるほどねー」


 私たちは空の上で歌う。誓いと共に。



 婚約指輪があるなら、私にはどうしてもやってみたいことがありました。

「正式なプロポーズ」です。

 もちろん判ってます。これは自己満足にしか過ぎません。それに返事もイエスに決まっています。そうじゃなかったら泣いちゃうよっ。

 それでも、場所は後楽園の東屋で、私はその婚約指輪をハニーから受け取ると、それを今度は差し出して(茶番以外の何者でもありませんね!)、芝居がかった低い声で言ったのです。


「結婚してください」

「はい!」


 つきあいのいいハニーは、途中まで怪訝な顔でしたが、私の意図が判るとそう答えてくれたのでしたが……

 実は、私はこのとき、痛恨のミスを犯してしまったのです。

「正式なプロポース」は、ひざまずいてしなければならないのに、私は立ったまま言ってしまったのです。ああ……


 私たちは空の上で遊ぶ。絆と共に。



 また、私たちは手土産を携えて新宿のZ支店を訪ねました。素晴らしいパートナーとの出会いをくれたお礼をしたいと思ったからです。

 くさっ、なんかCMくさっ! でも本当にしたんだから仕方ないですね!


(仕方ないねー)


 まあ、本当はデートのついでに見せつけに行ったというのが正解です。アポなしで行ったので、係の人は一人しかいませんでしだが。


 私たちは空の上で贈る。感謝と共に。



 そして6月には新婚旅行。行き先はバリ島。

 ハネムーン特別プランで席はビジネス、シャンパン付きで食事はエコノミー。

 一番の思い出は、オプションのサンセットディナーでした。揺れまくる装甲車に乗せられ、暗闇が迫る山中へと、どんどんどんどん走っていく。


(超怖かったよねー)


 どこがサンセットだ、もう夜じゃないか、まさか拉致されてるんじゃ……と思ったところで岩肌をぬっと割って現れた、お香が立ち込めるエキゾチックなホテル。山腹に立ち並ぶ東屋のひとつに案内されて、照明は無数のロウソク、暗い海の向こうに見える明かりが美しい夜景。料理はボーイさんが運転するバギーで運ばれます。トイレに行くときもそのバギーに乗って、うねうねとした道を上り母屋まで戻るのです。


 これで料理が雰囲気ほど美味かったならなあ……


(えー、美味しかったじゃん)


 私たちは空の上を飛ぶ。思い出と共に。



 旅行から帰れば、新居探し。

 ここで私たちは、今後、おおいにお世話になることになる不動産屋さん、ブリッジ住宅さんの方々に出会うことになります。特に営業を仕切っている社長の奥さんは、バイタリティが後光のごとく美しいオーラを放っていて、しかも社長である旦那さんを深く愛している様子が伝わってくる人でした。

 私はハニーに、年をとるならこの奥さんを目指すように、と注文したほどです。


(できるかなー?)


 私たちは空の上で出会う。奇跡と共に。



 無事新居も確保し、式の打ち合わせはいよいよ大詰め。

 更にハニーはドレス作りの日々。

 忙しくも楽しすぎる毎日が、矢のように過ぎていきました。


 そして、やがて来る結婚式当日で、この世で多くの女性が感じている苦労、

 その一端を、私は知ることになるのでした。


(大変だったねー)


 私たちは空の上を走る。幸せと共に。



 ハニー、愛してる。


 私たちは空の上で……



 そして、うつと診断されるまで、あと2年と8ヶ月。

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