第5話地龍 下

 俺は前髪が伸びるまで、黒い網で両眼を覆われていた。

 四歳のときだ。初めて網を外した日を今でも覚えている。

 父に鏡を見せられ、俺は酷く泣いたものだ。

 金と赤の眼が恐ろしくて堪らなかったから。

 父に、この両眼を生涯隠し通すようにと言われたとき、自分が普通ではないことを知った。

 それから、俺はなるべく他人と視線を交えないようにして生きてきた。

 そんなとき、りかが突然現れた。

 気味悪がられると思い、俺は俯いていた。

 それなのに、りかは勝手に俺の前髪を掻き上げ、宝石の眼だと言った。

 信じられない出来事だった。

 同時に嬉しかった。ありのままの自分を受け入れてくれたことが。


 それでも、俺は自分が普通の人間ではないという概念から離れることはこれまで一度もなかった。

 この先も、きっと普通の人間になりきることはできないだろう。

 そう、りかとは何もかもが違うんだ。

 なぜなら、俺はこうして両眼に宿った力で、化け物と会話をしているのだから。


 「地龍……か?」

 いかにも。少年、お前は今、我の力を解放した。この穢れた大地、甦らせてくれるわ。

 ギラリと光る赤の両眼の主は、土色の体だった。四本の足は太く短いが、大きな翼で威厳を示している。望は一瞬、身が縮こまった。

 「た……確かに、俺は放射線で汚染された大地を見てきた。それでも、人は科学の力で浄化に励んでいるんだ。簡単に『穢れた』だなんて言うな……言わないでくれ」

 愚か者め。人間に同情でもするのか。少年、この大地の自然浄化が間に合わないことくらい、分かっておるだろうに。

 望は頭部全体に強い痛みを、四肢に痺れを感じている。

 このままでは自分がどうにかなってしまうと思った。

 『ちゃんと、無事に帰ってきて』

 地龍に反発すると、りかの声が脳裏に響く。

 りかは今ごろどうしているだろうか。

 ちゃんと学校に通っているだろうか。

 己の研究に没頭しているのだろうか。

 痩せ細った望を思い出し、泣いてはいないだろうか。

 「俺は……この世界を守りたいんだ。だから、早く浄化しろ!」

 命知らずめ。たかが小娘のために気を張り、我に身を委ねないとは!

 だがその根性、気に入った! ただし、後悔するな。お前はもう、後戻りできない。

 「う……ああー! う、ぐ……!」

 苦しい! 望は悲痛のあまり、声に出すことすら叶わなかった。

 体の中に何かが蓄積されるのを実感する。

 「うう……」

 浄化は済んだぞ。あとは根本的な問題を解決することだな。おまえはいずれのお力を借りることになる。

 「……」

 望は地龍の言葉の意味を訊くことすらできない。全身が鉛のように重いのだ。

 そのときの望にできることと言えば、喉仏を震わせるだけだったが、地龍が望の微かな息に耳を傾けるはずがない。

 鋭い視線はあっという間に消え、そこで望の視界が変わった。

 怒涛どとうの声を上げる火山から、眠りに就いた豊かな森になった。

 「俺、は……!」

 現実に戻った望は途中で声を失った。体が重いままでいるばかりでなく、意識まで遠くに吸い寄せられる感覚に、膝を折った。

 「な、何だ、これ。俺、ますます変に……なったのか? ああ!」

 望は息苦しく悶えた。服が汚れるのをいとわず、土の上を這って下山した。

 その後、最寄りのコンビニのトイレで三十分間吐き続けた。

 ただひたすら体内に蓄積したものを外に出し、自分自身に問い続けた。

 俺の命はどうなっている? 俺の命はどうなっている? 俺はこれからどうなるんだ?


 その後、望は九州地方を一周、四国経由で関東地方に向かった。

 その間も、望は水質、地質浄化に励み、りかと別れてから十キロも体重が落ちてしまった。

 「父さん!」

 望は実家に帰らず、父親の紅太郎と神奈川県で落ち合うことになっていた。

 痩せ細った体を見せて、母親の梓や幼馴染みのりかを心配させるわけにはいかなかった。

 けれど、紅太郎には、この姿を右眼に焼き付ける義務がある。父親としてではない。

 「待たせたかな? 望」

 紅太郎は激変した息子の姿について何も言わなかった。驚きもしていなかった。

 「父さん、約束、忘れていないよな?」

 紅太郎は静かに頷いた。相変わらず、心の読めない表情で。

 それが、左眼を覆っている眼帯のせいではないことを、望は最近気が付いた。

 紅太郎は、望の両眼や水龍、地龍について詳細を隠した上で旅立たせた。望はそう推測している。

 「ここは人だかりが多いことだし、場所を移そうか」

 「うん」

 確かに、駅前では人の視線が気になる。望は紅太郎の後ろについた。

 父子は路地裏の小さな喫茶店に入った。

 店内には客がいない。二人はカウンターから離れた、仕切りのある席を選んだ。

 席に着くと、店員が注文を訊いてきたので、紅太郎は自分にはコーヒーを、息子にはトーストとジュースを、と言った。

 店員がカウンターの奥に入ってから、紅太郎は話を切り出した。

 「さて、望が訊きたいことは大体予想がつく。今まで黙っていて悪かった」

 「そう思うならば、先に言ってほしかったね」

 望は差し出されたお冷を一気飲みした。

 「まずは旅の話を聞かせてもらおうか。私の話は長くなるから。それに、私たちの注文したものを店員さんが全部持ってきてくれてからの方が良いだろう」

 望は頷いた。そのために梓とりかを避けたのだから。

 紅太郎の提案通り、望は旅先で見てきた環境汚染の話をした。

 もちろん、店員に聞かれないように、虫がささやくような声で。

 「……なるほど、おおかた事情は理解した。望、これはお前に課せられた使命なのかもしれない。私が話せなかったのは、具体的なことを知らなかったからだ」

 「父さんでも知らないこと? 何なんだよ、それ」

 「それは……あ、ありがとう」

 店員が注文の品を持ってきたので、話はいったん中止になった。

 ふたたび店員がカウンターの奥に去ってから、話を再開した。

 「望、私が昔、自分たちは普通ではないと言ったの、覚えている?」

 「うん」

 「でも、大昔はそうでもなかったんだ」

 「どういうこと? 普通だったということ?」

 「まあ、さっきも言った通り、長くなるけれど……」

 紅太郎は左眼の眼帯に触れながら息を吐いた。長い歴史を語り始める瞬間だった。

 紅太郎と望の祖先は大陸、現在の中国王族であった。もちろん、両眼とも黒だった。

 今では平和ではあるが、六千年も前は戦が激しく、人の血と屍で自然が穢れた。

 それにより、当時の国王は、海、大地、空それぞれを司る水龍、地龍、天龍の怒りを買ってしまった。

 三龍を代表する天龍がいましめとして、国王の血に天龍の血を混ぜた。

 以来、子々孫々は赤い左眼を受け継いできた。

 ごくまれに金の右眼を持つ者が生まれるが、その者は国王の生まれ変わりと言われている。

 また、国王が遺した使命を果たすのが役割とされている。

 だがーー。

 「当時の国王は、ご自分の血で言葉を遺された。私のように右眼が黒い者には反応しない。だから、お前の使命が何なのかは知らない。お前の血で反応させて、読み解くしかないんだ」

 紅太郎は木でできた巻物を望に渡した。

 望は十センチほど巻物を開いてみたが、確かに何も書かれていない。

 「望、それを読み解いて、私にも必要な情報だと判断したら、教えてほしい。代わりと言ってはなんだが、新井家と祈代家との関係を先に教えよう」

 「ご先祖さんと関係あるのか?」

 「ああ。当時の国王を日本で迎え、代々新井家に仕えてきたのがあの子……りかちゃんの先祖だよ。だからと言って、この眼のことは知らせてはいないけれどね」

 紅太郎はまたしても、己の左眼の眼帯に触れた。

 「私の話は以上だ。今日は横浜のホテルを手配したから、そこでゆっくり休むが良い。それを開くのに、誰も入らない空間が適しているだろう。今後のことは、お前の使命がはっきりしてからだ」

 「ありがとう。そうする」

 それから望は紅太郎と別れて横浜へ向かった。

 ホテルにてチェックインを済ませると、早速部屋に入った。宿泊代はすでに紅太郎が支払っているらしい。望の財布は出番がなかった。

 望は部屋で一人、手持ちの針で指の腹を刺した。

 一見、望の血の色は普通の人間と変わらない赤だ。けれど、紅太郎はこれが特殊だと言った。

 巻物を勢いよく開くと、ジャッという音がした。一メートルはある。

 それに、望の血を一滴垂らすと、少しずつ文字が浮かんできた。

 望が高校で習っている漢文よりも古い、絵のような文字だ。

 望はこの古代文字を知らない。それなのに、理論で理解しようとするよりも先に脳裏に声のようなものが響いた。

 もし理論で理解しようとしたのであれば、目の前に情景が浮かんでこないだろう。

 直感的だからこそ、望のいる空間が歪んで見える。

 『ちゃんと、無事に帰ってきて』

 「ごめん、りか。約束、守ることできない」

 望は己の運命を知った。

 同時に、自分がりかを想っていることに気付いた。

 普通の生活を続けていたら、叶うかもしれなかったこの想いを。

 

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