第3話水龍 下
幼いころ、私は一度だけ両親から酷く叱られたことがある。
望に折り紙製の眼鏡を作ってあげた翌日のことだった。
どうして叱られたのかは、分からない。ただ、必要以上に関わるな、と言われた。
私はそれが非常に悲しかった。
望と距離を置くということは、あの宝石のように綺麗な眼を見ることができなくなるという意味。
それだけではない。望の優しい心は宝石よりも輝かしい。望と一緒にいると、心が弾む。たとえ相手が両親であっても、私は望とのキラキラした時間を奪われたくなかった。
だから、望が気にする宝石のような眼を黒に見せるレンズを開発した。
すると、望は喜んだ。
「これで、りかちゃんとお揃いだね!」
望は黒眼に見えるのが、よほど嬉しかったらしい。望の声は陽だまりのように温かかった。
望のおじさまもお礼を言ってくれた。けれど、おじさまの声はつららのように冷たく鋭かった。
何でもないように演じているけれど、やはり今でもおじさまは苦手だ。
眼科医だけれど左眼に黒い眼帯をしていて、黒い右眼で私を監視しているような気がする。
望の両眼のことも隠したがっているようだ。
どうして? 望はこれほどキラキラしているのに。
望が見ると、水面も、空も透き通って輝くのに。
こんなに素敵なこと、おじさまは知らないのかしら? それとも知っているから隠したがっているのかしら?
もしそうだとしたら、どうして?
「はあ? 休学? なんで?」
望が泥だらけになって帰宅した翌日、父親の紅太郎が部屋に来た。
そして、一年間休学するように言ったのだ。
「望……」
紅太郎は息子の手に片手を重ね、もう片手で頬を包んだ。
「母さんは別として、私とお前は普通ではない。それは、分かっているな?」
紅太郎は望の手から自分の手を離し、黒い眼帯を
すると望は驚いた。生まれて十六年、実は一度も父親の左眼を見たことがないのだ。
「父さんまで、その眼!」
「私の家系は代々こうなるんだ。だから、子は一代につき一人のみと決められている。そして、ごくまれに金色の右眼の子が生まれてくる。その一人がお前だ、望。私以上に普通ではないんだ」
望が見た右眼は、先日脳裏に浮かんだ水龍の眼と同じく、冷たい視線を感じる。
「じゃあ、なんで俺は金色の眼に生まれたんだ? なんで俺は普通じゃないのか?」
内心では、実父から異常扱いされて、ショックを受けている。望は涙眼で紅太郎に訴えた。
頬を包む手を払い、唇に触れた「静かに」という合図の人差し指を掴む。
息子に反抗的な態度を取られても紅太郎は冷静であった。
「お前のおじいさんは生前、金色の右眼を持つ者には、何か特別な使命があると言っていた。それは私のような者には伝わらないようだが、お前は心当たりがあるのだろう? お前が普通でないのは、それしか理由がない」
そうだ、少年よ。そうやって門を開き、浄化に励め。
望ははっとした。
「もしかして、水龍……?」
「何だって? 望、もう一度言ってみなさい」
紅太郎は冷静な態度から一変、取り乱したように息子の腕を掴んだ。
「痛いって。言うほど詳しくばないのだけれど。実は……」
望は最近見る夢、昨晩の幻についておおまかに、紅太郎に話した。
「これは、あの子に言っていないね?」
「りか? 言ってねえよ。つうか、いい加減名前で呼んだらどうなの? 少なくともあいつは頭が良いだけで普通の人間だろ」
望は水龍のことを話して後悔した。昨晩自分を見付けたのはりかだというのに、紅太郎は感謝すらしていないように思えたからだ。夜遅くに女の子に出歩かせといて。
「望、そう怒るな。これはあの子、りかちゃんのためでもあるんだ。水龍さまの仰る通りであれば、お前は旅をして少しずつ水質浄化をしなければならない。いきなり世界中の水問題が解決したら、マスコミが黙っていないはず。それに彼女を巻き込む気か?」
紅太郎はりかの名前のみ、棒読みで口にした。不本意といったところだ。
息子を諭すには、りかの名前をきちんと呼ぶしかないと思ったのだろう。その効果があってか、望の興奮はピタリと治まった。そこで、紅太郎はもう一度尋ねた。
「りかちゃんを巻き込む気か?」
「……ない」
望の両眼に陰りができる。
「できない、そんなこと。りかに迷惑をかけるなんて!」
望は立ち上がった。
「父さん、休学届けは任せる。俺はりかから眼鏡を受け取ってから出発する」
「望……」
紅太郎はため息をついた。
「何だよ? 人がせっかく決心したというのに」
「飛行機の手続きの方法、知らないだろ」
「あ!」
紅太郎は、息子が海外で上手に世の中を渡っていけるのか、不安になった。
望の出発は夏休み初日、水質浄化はまず日本国内で始めることになった。
ルートは北海道から東京都まで戻り、その後は九州、沖縄に向かうというものだ。
そして出発当日、望は単身、羽田空港に向かうことになっていた。
「望、気を付けてね」
何も事情を知らない梓が心配そうに、望の頬に手を伸ばす。
「大丈夫だよ、母さん。無理はしないから。父さんのこと、よろしく」
「ええ、もちろん。それにしても、父さんも急に決めるのだもの。あんまりだわ」
望は無言で苦笑した。茶色に近い黒の両眼を持つ母親には、真実を受け入れられそうにないことだから。
「それじゃあ、行ってくるよ」
羽田空港にてチェックインを済ませると、望はロビーにて記憶にある人影を見付けた。
「……りか! どうしてここに?」
望は驚いた。休学の件はりかに話していないからだ。もちろん水龍については言うまでもなく。
「おばさまから聞いたの。昨日、街で偶然会ってね。それよりも望、酷いじゃないの。私に黙って行くなんて!」
そう言うりかのリュックは隙間がなさそうに膨らんでいて、重そうだ。
「もしかして、りか……?」
望は青ざめた。考えたくないことが脳裏に浮かんでしまったのだ。
「そうよ。私も行くわ。親は反対したけれど、こうなったら強行するのよ」
「ダメだ!」
望は身震いした。幼馴染みとはいえ、高校生が男女二人きりで旅に出るものではない。
それ以前に、望は恐れているのだ。自分を理解してくれるたった一人の女の子に、普通でない自分の力を、紅太郎のように異常だと言われることを。
「言っておくけれど、チェックインはもう済ませているから。今ここで追い払うならば、望がキャンセル料を払ってよね。その前に、私は引かないわ」
りかは珍しく望につんとした態度を取った。望は事前に母親の梓に口止めしなかったことを後悔した。
それにしても不思議なことだった。
紅太郎はおそらく、出発のギリギリまで梓に休学の件を明かさなかったはずだ。慎重な性格の父親ならば、打ち明けるにしても、言葉を一つ一つ選ぶだろう。行き先だって口にしなかったと、望は思う。
つまり、紅太郎にはぬかりはなかったということ。それを上回ったのは、女の勘というものだろうか。もしそうだとしたら、恐ろしいことこの上ない。
「……分かった。ただし、条件がある」
望は前髪を掻きむしって
「何? 望」
一方、りかは眼を輝かせている。望は後に気付くが、りかは眼鏡を外している。
「まずは、ご両親に家を出たことをきちんと説明すること。あと、俺の行動を邪魔しない、誰にも口外しないこと。最後に、自分の安全を第一に考えること。これを守ってくれなければ、即帰ってもらうからな」
「分かった」
こうして、二人は北海道、新千歳空港へと旅立った。
初めて北海道の土を踏んだ二人の感想は、ただ一つ「涼しい」だった。
生まれも育ちも東京都の望とりかにとって、極楽の土地だった。
望の使命さえなければ。
「りか、早速宿に行くぞ。その荷物、早く降ろしたいだろう? それまで俺が持ってやるから」
「嫌よ。このリュックの中には、望専用のメンテナンス用具が入っているんだから。雑に扱われたら堪らないわ」
「服とかが詰まっていたんじゃないのか。よく金属チェックを通貨したな」
望はりかを普通の人間という枠に括ったことを間違いだと悟った。
彼女はわずか六歳にして特殊なレンズを生み出し、実用化させたのだ。望の眼鏡という形で。
今も品質改良に励むりかが、旅に工具を手放すなど、冷静に考えたらあり得ないことだった。
望はそれに失念していた。
「だったら、なおさらだろ。重くないのかよ」
「大丈夫よ。望は自分がやりたいことに専念して」
「その気持ちはありがたく受け取っておく。けれど宿に着いたら、そこで待っていてくれ」
「何もせず、じっとしていろ、と言うの?」
りかはむっとした顔で訊いた。
「俺の邪魔はしないと約束しただろ。もう忘れたのかよ」
「忘れていないわ。でも、望がたった一人でしなければならないことなの?」
「そうだ」
りかのためだよ。望はそう言おうとした。
「分かったわ。宿は私が探しておくから、さっさと行けば? 民宿が安くて良いんだよね?」
りかはあきらかに怒っている。望に背を見せ、スタスタと歩き出した。
重そうに揺れるリュックを見て、望は呟いた。
「こんなことをしたいんじゃないのに……何やっているんだ、俺は」
後悔しても仕方がないので、望はりかの痕に続いた。
「私一人で大丈夫だってば」
りかは望の顔を見ようともしない。それでも望は足を止めない。
「宿は民宿であれば良いわけではないんだ。水辺の近くが良い」
「水辺? どうして?」
「どうしてもだ」
「ふーん……ま、いいわ」
「りか、俺が悪かったから、機嫌を直してくれ」
「それはできないわ」
りかはそれ以来、民宿でも望と一言口を利かなかった。
そして二十時。
望は河川を求めて民宿を出た。りかとは別の部屋なので、気付かれることはない。
河川に着くと、周囲に人がいないことを確認する。
林に入って初めて、望は眼鏡を外した。
それまで木々すらうっすらとしか見えなかったけれど、本来の眼の色に戻った途端、木々だけでなく獣道にいたるまで明るくなり、よく見える。
「うーわー! ゴミの量が半端じゃねえ」
獣道の入り口には、お菓子の袋や空き缶、ペットボトルが散乱している。
望は自宅から持ってきたレジ袋を数枚、バッグから取り出した。
「ゴミ拾いしながらだと、どのくらい時間がかかるかな」
よいしょ、と望は屈んだ。
結局、河川に辿り着くまでに二時間はかかってしまった。限界まで膨れ上がったレジ袋を十袋も抱えていなければ、十五分ほどで到着したはずなのに。
肝心の河川は、悲鳴を上げているようだった。原因は、理系のりかがいなければ分からない。
望は英語や漢文に強くても、数学や理科にはめっぽう弱いのだ。
やはり、りかを連れて来るべきだったのだろうか。他言無用という父親との約束と板挟みになり、望は頭が痛くなった。
そんなとき、望の脳裏に聞き覚えのない声が響いた。
ああ、人間どもが生み出した忌まわしい雨で大地まで穢れてしまった。
「水龍ではない……の、か。あ、う……あ!」
望はそこで意識が遠のいた。そのときに両眼が疼いたのは、お約束だ。
望を取り囲んでいるのは、色素の濃い木々だ。
天気も晴天で、贅沢な気持ちになる。
ところが、突然大粒の雨が降りだした。
「あ……!」
そこで望は驚いた。
木々は潤うどころか、一瞬で枯れ果てた。
大地にヒビが入り、河川に沿って向かった先の海では、赤潮が発生している。
少年! 河川をほんの少し浄化したくらいでは、何の足しにもならないぞ。
もちろん、我が大地にしても、言うまでもない。
水龍ではない誰かの声が聞こえる。けれど、視線を感じないので、どこから聞こえるのかは分からない。
「とにかく、力を使わないと!」
望は疼く両眼に力を込める。すると両眼から光が広い範囲に行き渡った。
「ん、んん……?」
眼を開くと、白いレジ袋が望を囲っていた。
「また、夢を見ていたのか? これ……捨てなくちゃ」
それから望はコンビニのゴミ箱に袋ごとゴミを捨て、民宿に戻るのは二十三時を回るころだった。
夢で見た雨のことをりかに訊かなくては、と思った矢先、望は突然吐き気に襲われた。
共同のトイレに駆け込むと、食べ物ではない異物のようなものを一気に嘔吐した。
「きも……! 何なんだよ、これ」
それに体が重い。熱は感じないので風邪ではないだろうが、汚物を見る限り、人間が口にする物とは到底思えない色だった。
結局望はりかの部屋を訪ねる気力もなく、風呂に入るだけで精一杯だった。
それから望とりかは三週間かけて北海道を一周した。旅の途中でりかに教わったことは、酸性雨というものが緑や大地を荒れさせるということ。
河川や海を浄化したくらいでは、根本的に問題解決できないということを、望は学んだ。
また望は、水龍の他に自然を司る存在がいるのかもしれないと思い始めた。
それは、東北地方に到着して一週間後、放射線で汚染された大地を目の当たりにしたときだった。
理科、とくに化学のきとになるとりかの力なしでは解決できない。
河川や海だけではなく大地を浄化した後は、決まって嘔吐を繰り返す。
一ヶ月の旅で、十キロ以上も体重が減った。
結局、自分は無力なのだ。望はそう思った。
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