第2話水龍 上

 十年後。

 「またかよ……今日で何日目だ?」

 十六歳になった新井あらい望はクーラーの効いたリビングでバニラアイスを食べていた。

 多くの人にとっては至福のときであるはずだが、望はテレビに向かって、うんざりした声を吐き出した。

 その隣では、幼馴染みの祈代いのしろりかが美味しそうにストロベリーアイスを食べていた。

 「まだ梅雨が明けて三日、猛暑はまだまだこれからよ。今からげっそりしていて、どうするのよ? 望」

 りかはスプーンを宙で回し、呪文のように梅雨前線だの温暖前線だのと、望が苦手な理系用語を唱えている。

 「りか、文系の俺に訳分からないことを言わないでくれ。これ以上頭がおかしくなりたくない」

 「あら、望だって中学で習ったじゃないの。今から文系だの理系だのと決め付けてどうするの? 私たち、まだ高校生になったばかりじゃないの」

 「わずか六歳で理系に目覚めたりかには言われたくない」

 望は中指で眼鏡を持ち上げた。望にとって必需品だ。

 十二年前、四歳だった望とりかは出会って間もなく行動をともにするようになった。

 そして六歳になると、りかは親の力を借りずに、レンズからフレームまで望の眼鏡を作り上げた。

 成長して顔の大きさが変わった今でも、りかは望の眼鏡を作り替えている。

 「……でも、確かにこの気象は異常だよね。一方的に大人の意見を聞かされるより、自分たちで何か掴んでみたいわ。きっと、教科書には書かれていないことだってあるはずよ」

 りかはアイスを頬張りながら呟いた。望はその言葉にどきりとした。

 二人の前に置かれているテレビでは、連日その日の最高気温やらダムの干ばつやら、さまざまな水問題が報じられている。

 理数系が苦手なだけで自称文系の望でさえ、背景がテレビに映るたびに裏を感じ取っていた。

 けれどそれは、りかには口外しない。

 「りか、アイス食ったなら家まで送るから。帰り支度しなよ」

 「ええ? いいじゃん、もう少しここにいたって」

 「学校の課題があるだろ。それにあまり遅いと危ないぞ」

 望がそう言っている間に、二十一時の番組が始まった。二人とも興味のないバラエティー番組だ。

 「分かったわ。その眼鏡のメンテナンスも済んだことだしね」

 りかは工具セットを手に取った。りかの手荷物はそれだけだ。

 「りかちゃん、いつもありがとう。気を付けて帰ってね。望が頼りになるか分からないから」

 リビングの奥から、望の父親が言った。母親はキッチンでクスリと笑っている。

 「ちょっと、父さん! 俺、男だぞ」

 「頼りになるかどうかは、男女で決まらないよ、望」

 左眼に眼帯をしている父親の紅太郎こうたろうは右眼の端に皺を寄せる。息子の望をからかっているのだ。

 望がむきになったところで、りかが望の腕を引っ張る。

 「望、私を送ってくれるんでしょう? おじさま、おばさま、お邪魔しました。アイスも、ごちそうさまでした!」

 「いいえ、また来てね、りかちゃん」

 母親のあずさはキッチンから出てきて言った。その隣では紅太郎が無言で微笑んでいた。


 りかを家に送り出した夜、望は夢を見た。

 河川が甲冑かっちゅうから流れ出た血で汚染されたり、その血水に望ではない誰かが呑み込まれる。

 その誰かとシンクロするように息苦しくなったかと思えば、今度は地上にて海水が上昇するのを目の当たりにする。

 酸性雨で緑が一瞬にして枯れ果てる。大地にひびが入る。

 そして、どのようなシーンに移っても、必ず赤い眼をした何かが望を見ている。

 そんな夢を、望は一ヶ月ほど前から毎晩見ているのだ。

 「はあ……はあ、はあ……」

 瞼を開くと、望の寝汗は尋常ではなかった。パジャマだけではなく、シーツまで粗相をしたようにぐっしょりと濡れていた。

 さらに、決まって両眼が疼くのだ。あわてて眼鏡をかけても、治まらない。

 仕方がないので、望は眼鏡を外した。幸い、この部屋には自分以外、誰もいない。

 暗闇の中で、望は手鏡を見た。何年も前にりかから押し付けられたものだ。

 また、紅太郎より、自宅でも素顔は自分の部屋でのみ見るようにきつく言われている。

 「この眼のせいなのか……?」

 望は両眼の瞼をそっと撫でた。瞼自体に痛みは感じない。ただ、眼の奥が疼く。

 幼いころ、りかはこの眼を宝石みたいだと言った。けれど望は一度も同感したことはない。

 「何なんだよ、もう」

 ふたたび寝床に就いたが、望は朝まで夢でうなされることになる。

 何かが雄叫びを上げている。もがき苦しんでいる。大きな渦に取り込まれて。

 二度目の夢では、望は傍観者となっている。

 渦の中心にあるものが何なのかは分からない。ただ、赤い何かがぎらぎらと光っているだけで。

 その赤いものが望を硬直させる。深海に溶け込んだ群青色の渦に二度も呑み込まれそうになったところで、幻が途切れた。

 「もう、何日目だよ、これ……」

 望は朝日から守るように、眼鏡をかけた。眼球の痛みはすっかり消えていた。

 パジャマから制服に着替え、望は朝食が待つキッチンへ向かう。

 「おはよう、望」

 紅太郎と梓が声をかけると、望はあくびをしながら答えた。

 「……はよ。父さん、母さん」

 「今日もまた、ずいぶんと眠そうだね。悩みごとでもあるのかい?」

 紅太郎がコーヒーを啜りながら尋ねると、望は思春期らしい反抗的な返事をした。

 「別に。何でもないし」

 その横で、梓は呟いた。

 「男の子って、成長期に入ると生意気になるのよねー」

 夢でうなされたとは言えず、望はただ朝食の味噌汁やご飯をかき込んだ。


 通学路にて、これといった特徴もない河川を眺めながら歩いていた。どこにでもある、生活の名残あふれる河川だ。ところどころにペットボトルが浮かんでいる。

 いつからこうなったのだろう。望は無意識に感じた。両眼のじりじりとした痛みを抱えて。

 「望、大丈夫?」

 立ち止まっていると、ついさっきまで一緒に歩いていたりかが望の顔を覗き込んだ。

 りかは上半身を左に傾けているので、左側に結ったサイドテールがゆらゆらと揺れている。

 「え……ああ、平気だ。それで、何だっけ? りか」

 「今日の六限目、サボったらダメだよって言ったの」

 「あれか、ここのゴミ拾い」

 「そう、理数科と文学科の合同作業だから、ちゃーんと見張ってあげるからね」

 りかは眼鏡をかけた顔で笑った。フレームがピンク色のためか、望には顔全体までピンク色に見える。

 望とりかが通う都立高校は文学科と理数科の二学科が設けられている。

 普段、両学科はほとんど交流がない。けれど年に四回、合同で通学路を中心として、校舎より半径一キロメートルを学年ごとでエリア分けして、ゴミ拾いを行事として行う。その内の一回が今日にあたる。

 きっかけは卒業生の買い食いによるゴミの増加だということで、高校側が生徒に責任を持たせる教育の一環として取り上げたのだ。

 けれど現実は厳しく、中々河川のゴミは減らない。

 主な原因は二つあり、一つは望の所属する文学科が真面目に行事に取り組まないこと。

 文学科は女子が多いせいか、汚れたものを毛嫌いする傾向がある。また、数少ない男子はゴミを拾うよりも一つでも多くの英単語を覚えたいという思いが強く、不満げにちまちまとゴミを拾うのだ。春の行事では、望もその一人だった。

 もう一つの原因は、理数科にある。

 文学科と比べて、理数科は真剣に行事に取り組む。けれどその真剣さはゴミ拾いではなく、水質汚染という研究対象に注がれるのだ。

 そのため、理数科ではゴミ拾いをしながら器用に水質サンプルを採取する者とサンプル採取に専念する者とに分かれる。

 結果、河川を泳ぐゴミは一定の量をキープしている。

 今回も、同じことになるだろう。りかはそう思っていた。

 けれど今回の望は文学科には珍しく、真剣にゴミを拾った。その量は燃えるゴミ五袋、空き缶二袋、ペットボトル七袋、合計十四袋と両学科学年トップになった。

 言うまでもなく、そのエリアは河川だけではなく、草木の間にもゴミ一つ残らなかった。


 その日の二十時ごろ、望は私服姿で通学路の河川を訪れた。熱心にゴミを拾った後も、この河川が気になって仕方がないのだ。

 どこの河川の水でも、いずれは海に辿り着く。けれど、望はこの河川から海の声のようなものが聞こえる。

 「ような」という曖昧なものではあるが、その感触は夢の中で見る渦や赤く光る何かと似ていることを確信している。

 その眼を使え。力を開放せよ。

 望の脳裏に声が響く。けれどどこから発しているのかは分からない。

 そのうち両方の眼球が痛みだした。痛みに耐えていると、目元でレンズが割れる音がした。望の眼が眼鏡を拒んでいるようだ。

 十分ほど経っても痛みが引くことはなく、望は耐えきれず、周囲を確認した。高校の全部活動が終わっているので、誰もこちらに来る気配がない。

 「はあー……はあー……」

 望は息切れ切れの状態で眼鏡を外した。すると痛みはスーッと引いていった。不思議なことだった。

 そうだ。このままへ来い。

 またしても、望の脳裏に声が甦る。こちらとは一体どこなのか。望は顔面の上半分を片手で覆って辺りを見渡した。

 望の眼は、何があっても誰にも見られてはいけないものだった。ただ一人を除いて。

 「う……ああっ!」

 今度は頭痛に襲われる。脳内で渦が巻いているようだ。眼を瞑ると、赤い何かが脳裏に浮かんでくる。

 眼を瞑るな。解放しろ。でないとこの世界はーー。

 「ああー!」

 望はその場で倒れてしまった。


 望が眼を覚ますと、そこは大きな渦の中だった。

 渦の中は自由に泳げるが、渦の外には出られない。そっと指で触れたら、渦が望を弾いて渦の中心に戻してしまう。

 徐々に細くなる軸の下には、夢でおなじみの赤い何かが望を見ていた。

 『やっと来たか、少年よ』

 今度の声は脳裏に響かなかった。すぐそばまでいるように聞こえた。よく見ると、赤いものは二つあり、妙な圧迫感がある。どうやら眼のようだ。

 『私は水龍すいりゅう。海を司る存在。人間の歴史よりも永い間、この海で生きてきた』

 群青色にうっすらと輪郭ができた。その姿は名乗った通り龍のようだ。前足はなく、短い後ろ足は水かきになっている。尾はとぐろを巻くほど長い。

 望は驚いた。自分の左眼と同じ色の生き物が存在するとは思っていなかったからだ。

 けれど、驚くべきことはそれだけではない。

 「ここが海だというならば、俺はどうして息ができるんだ? それに、ここにはどうやって来たんだ? 教えてくれ。俺は河川の側にいたはずだ」

 『少年よ、貴様の魂のみ我が門に辿り着いた。つまり貴様はその両眼の力を解放できるということ』

 「力……だと?」

 望は瞼にそっと触れた。そこで望は眼鏡を外したことを思い出した。

 『貴様には、その眼に宿った力で、人間どもが穢したすべての自然を浄化する義務がある。さあ、解き放て!』

 「う、ああー!」

 望はのけ反った。痛みではない、得体の知れない何かを放出したような感覚に耐えがたかったのだ。

 『そうだ、少年よ。そうやって門を開き、浄化に励め。貴様とはもう二度と会うことはないだろうが』

 そこで、望の意識は途切れた。


 「……ぞむ、望!」

 そこには、傘を差し、よく知った少女の顔があった。

 「り、か……? あれ? ここは……俺、どうやって?」

 頬に草の先端が突き刺さる。つい先ほどとは違い、服が濡れている。

 望は重い体をゆっくりと起き上がらせ、髪を掻きむしった。

 「望、心配したんだよ! おじさまから電話があって、家に来ていないかって。それで私、ずっと探していたんだよ。眼鏡まで割れて、どうしたの?」

 ほら、とりかは望の眼鏡を見せた。

 「大丈夫、ここには私一人しかいないから」

 望は言葉を失った。水龍はただの幻なのか。では、あの不気味な感覚は一体何だったのだろうか。声に出そうとしても、何から言えば良いのか分からないのだ。

 それに、自分の裸眼を知っているりかに話すべきことなのかも、答えとしては微妙だった。

 「望、帰ろう。眼鏡は今夜修理して、明日の朝、持ってきてあげるから」

 りかは望に傘を被せた。

 「ほら、こうしたら道で誰かに会っても、分からないよ」

 りかの頬には涙の痕があった。それでも顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 いつだって、りかは望を真っ直ぐ見てくれる。ありがたい存在だ。

 「そういえば、りか。眼鏡外して大丈夫なのか? 眼、悪いんじゃないのか?」

 よく見ると、りかはピンク色のフレームの眼鏡をかけていない。そのことに望が気付くと、りかは躊躇いもなく言った。

 「言い忘れていたけれど、私の眼鏡、伊達なんだよ。ちなみに視力は一・五」

 「嘘だろ!」

 「本当よ。大体、偏見だよね。眼鏡屋の娘だからって眼鏡をかけなきゃならないなんて」

 望とりかは何事もなかったかのように、二人で一つの傘の下、他愛ない会話を弾ませ通学路の河川を去った。

 「見て、望! 夜なのにこの川、キラキラして綺麗!」

 りかが言う通り、翌日の登校時、多くの生徒が澄みきった河川に感動の声を上げることとなる。



 二十二時ごろ、泥だらけになった息子が帰って来た。けれど、中々家に入ろうとしなかった。祈代家の娘のものだろう。カラフルな傘で顔を覆っていた。さらに彼女が息子の眼鏡を持っていたので、大体の事情は察しがついた。

 望には、昔から口酸っぱく己の裸眼を見せないよう言い聞かせてきた。たとえ相手が母親であっても。

 私を含め、祖先は代々赤い左眼を持って生まれてきた。生後間もなく目の細かい黒い網を被せ、他家から嫁いできた人間にも気付かれないようにした。

 この赤い眼は絶対の秘密なのだ。

 母親から隔離すれば良いのだけれど、乳児は読んで字のごとく、母乳が欠かせないので仕方がない。時代が進み、粉ミルクが普及した世の中になったのも、事実ではあるが。

 瞼を開くようになると、網から眼帯に変わった。私もそうだった。右眼は普通の日本人と変わらない黒だからだ。

 けれど、望は違った。望の左眼は私と同じ赤だったけれど、右眼は金色だった。

 私たちの祖先と同じ組み合わせのオッドアイだ。

 普通の日本人として生きていくために、望には、前髪が伸びるまで黒い網が必要だった。

 けれど、望が四歳になったとき、計算が狂った。

 私たちの祖先がこの国の地を踏んで以来、陰で支えてきた祈代家の娘が望の眼を見てしまった。

 そして、あろうことか、望に妙な眼鏡を贈り、後に前髪を切ってしまった。

 幸い、彼女は自分の両親に口を開かなかった。けれど熱心に、望の眼が黒に見えるレンズを開発したのだろう。何かを察して、彼女の両親が謝罪に来た。

 感付かれたからには仕方がない。私は我が妻であっても口外しないことを条件に娘の粗相を許した。同時に、幼い彼女を監視の対象にした。

 けれど、今となってはそれも不要だ。望が何かやらかしたらしい。

 これ以上、彼女は望の側にいてはいけない。

 時間切れだ。

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