七.黒箱
十三
現実は夢よりもあっけなかった。
……ペキ……カタン。
扉に打ちつけられていた板は、夢よりもずっと軽い音を立てて剥がれ、床に落ちた。その後、それよりもずっと重い音を立てて、釘抜きが僕の手から滑り落ちた。
――そうだ。現実なんてそんな物だ。
夢と違う。現実は重い。
そう思えるのは、そうとする理由があるべき者だけだ。それが無ければ、夢と大差ないだろう。
どれだけ立派な先生が夢と現実の違いについて説こうと、少なくとも今の僕にはそうだった。
僕は焦点の定まらぬ目でその戸を見た。
剥がした板きれに囲まれて、色あせた黒塗りの戸が立ち尽くしていた。
無造作に手を掛ける。――開かない。
捨て置いた釘抜きで少し叩くと、その先端が裂けた戸板にめり込む……そのまま一気に捩じると、戸板の中央部分が簡単に裂けていった。
それでも、戸板の枠だけは少しだけ抵抗する気配を見せていたが、それすらもあっけなく引きずり出された。
枠は壊れた。閉ざされているべき空間からはひんやりとした空気と「闇」が漂ってくる。
そう、闇。
本来なら四畳半程度の小さな空間のはずだが、中が異様に暗いせいか、奥までは見えない。
そんなに広いはずはないのに、どこまでも深く暗く広がっている――この村の闇自身のように思えた。
僕はしばし呆然としてその闇を見つめていたが、目が慣れてくると、部屋の中央に小さな突起、いや箱が安置されているのが分かった。
昔話の小さなつづらを思わせる、黒い箱。
だが、中身は大きなつづらよりも恐ろしい。西洋風に言えばパンドラの箱かもしれないが、開けたとしても「希望」は決して残らない。残るのは「諦め」。いや、きっとそれすら感じない「虚無」。
僕は座り込んで、その箱を手に取るとそっと持ち上げた。……軽い。
少し振ってみても、中で重い物が揺れ動く気配はない。それもそうだ。そんなに大きくては、「蟲」は、人体になど寄生できまい。
――だが、しかし……。
無い。やはり無い。
この箱には、開け口が一切無かった。表面全体を黒塗りの和紙のような物が覆っていて、軽いので「箱」というよりは「張り子」のようにさえ思える。釘抜きで叩き壊そうかとも思ったが、その黒い塊の奇妙な威圧感がそれをためらわせた。
結局、僕は箱を置いて一度部屋を出ると、ナイフとロウソク、皿、ライターを持って戻ってきた。
本来なら、箱を明るい所に持ち出して開けるべきなのだろうが、そうしたくなかった。この黒い箱は、この黒い部屋と一体であり、外に持ち出すことは「あってはならない」ことだと、なんとなく感じていた。
僕は火を着けたロウソクを皿に立てると、作業を開始した。
刃先を黒い塊に斜めに当て、貼られた紙を半ば削るように剥いでいく。丹念に、丁寧に……。
奇妙なことに、この時になって、僕の心は静まりかえっていた。季節外れのこの部屋のひんやりとした空気が、その心境に変化を与えたのかもしれなかった。
全て消えた。憎しみも、怒りも、憤りも、悲しみも……最後に一瞬、まだ幸せだった頃の家族の姿が浮かんだが、それも闇へと還っていった。
そして、黒い紙の中から、ようやく黒ずんだ木箱が姿を見せた。随分硬い木らしく、ナイフで穴を開けるのは難しそうだった。それからしばらく隅の方へと木箱が見えた部分を押し広げ、蓋と下の箱部分の境界を見つけると、それに従って削り続けた。
ズズズ……。
箱は開いた。
ロウソクの薄明かりの中、蓋が引き離されるのを惜しむかのようにゆっくりと分離していった。
中には、昔の粉薬のように丁寧にのり付けされた黒い和紙が何包も入っている。
僕はそのうち一つを手に取ると軽く振ってみた。粉……いや、休眠状態の蟲が何十匹も入っているようだ。ロウソクの炎に透かして中を見ようともしたが、透けなかった。
これを、これさえ飲めば――
そうだ。解放される。全ての苦痛から。
僕はふと、箱の隣に置いた蓋の内側を見た。
「二度トコノ蟲ニ――」
古い字体のかすれた墨字。それ以上は読めなかった。それでも、何を書こうとしたのかは十分に分かった。
そう望みながらも、これを記した人間はこの蟲を処分することが出来なかった。
結局は、人間は自分自身には勝てないのだ。自分自身の虚像に怯え、自分自身の欲望に溺れる。
弱い人間……誰かが、そう呟いた気がした。
「ああ、そうだ。僕は弱い」
僕は手にした黒い和紙を、そっとロウソクに近付けた。
十四
和紙は一瞬にして火に包まれ、手放した僕の手から蝶のように舞った。
それも、一瞬。すぐ床に落ちて床がどんどん炎に包まれていく。
尋常な燃え広がり方ではない。おそらく、この家自体、簡単に燃やして処分できるように細工がしてあったのだろう。
「ここまでしてあったのに……誰もしなかったのか。だけど……」
僕は笑った。自分自身で「心から笑っている」と確信できる笑みだった。
――終わりだ。これで全て。
そうだ。これでいい。
もう、逃げる余裕などない。
自身の軽率な行動で僕は身を滅ぼすだろう。辺りを包んだ炎は、すぐにでも僕を焼き尽くすだろう。
焼け死ぬのは酷く苦しいと聞く。蟲で死ねればずっと楽だっただろう……それでも……。
業火はどんどんと広がりを見せていた。
呼吸が苦しくなって、意識が遠ざかっていく時、しわがれた腕を見た気がした。
それは、愚かな僕を迎えに来た地獄の亡者の腕のように思えた。
「なんということを……」
老人は、炎に包まれたその家を呆然と見ていた。その背後には、多くの村人が集まってきていた。
それでも、一向に消防車は来る気配が無い。
――中途半端に燃え残りでもして、あの蟲が外に出たら……。
皆、分かっていて呼ばないのだ。来るはずがない。
「ああ、惜しいことを――」
「とうとう、あれもおしまいか――」
「しかし、勝手に――」
村人たちは口々に勝手なことを喚いている。
そうしている間にも、炎は天高く燃え上がり、夜の闇を煌々と照らしだしていく。
その様子を見ていた老人は言った。
「よう……やってくれた。これで、この村も呪縛から解き放たれる」
もっとも、人々がそのことに気付くのはもう少し後になりそうだが。そうだとしても、闇を切り裂いたことには変わりないだろう。
村人たちは、野次馬根性丸出しで、見物に次々と集まってきていた。
その時、老人はふと誰かが足りないような気がした。
僕は気が付くと、病院のベッドの上だった。
全身に包帯を巻かれており、指一本はおろか、声一言も発することができない。
枕元に来た医者が言うには、体の大部分に酷い火傷を負っており、助かったのは奇跡だそうだ。
運が良いのか悪いのか……僕は、しばらくは自殺すらできないようだ。
あの老人が来て言うには、僕を炎の中から引きずり出したのは、あれほど蟲を欲しがっていたあの老婆だったそうだ。
当然ながら老婆も全身に酷い火傷を負っており、まだ若く体力があった僕と違って、年老いている上に元々不規則な生活で衰弱しきっていた老婆には助かる見込みが無かった。
老婆は手の施しようがなく、運び込まれてすぐに亡くなった。身寄りのない老婆のささやかな葬儀は、村の代表として老人が取り仕切ったそうだ。
亡くなる直前、老人はなぜそこまでして助けたのか尋ねた。
「あの子には、生きとる値打ちがある」
それが最期の言葉となった。
老人から、それを聞いてから数日が経った。
今でも、僕自身、自分にそんな価値があるようには思えない。
そもそも、あの時火を放ったのも、運命に流され続ける自分自身にほんの少しでも反抗したかった――そんな身勝手で子供じみた理由に過ぎない。
ただ、少なくとも今の僕には何もない。
だから、どこへでも行ける。自分を縛る物が何もないのだから。
完
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