六.絶望

十一


 数日後。

 その日は村の人間総出で山狩りだった。

 あの女の子が居なくなったのだ。僕も家を紹介した例の老人から連絡を受け、それに加わった。

 もっとも、まだ地元の地理にそれ程詳しい訳ではないので、山の比較的浅い部分を受け持つこととなった。

 集まった人々は、街の悪い人間にさらわれたに違いないと大声で噂していたが、どことなくそれはぎこちなく、造り物じみた印象を受けた。――皆知っているのだろう。本当のことを。

 午後遅くになって、それはあっけなく終わった。

 女の子は僕の家からたった十数メートルの藪の中で、首を吊って死んでいた。あまりに近い所なので、皆見落としていたらしかった。

 叫び声を聞いて僕が行った時には、「それ」は夕日を背にしてブラブラと揺れていた。木の枝からぶらさがっているそのシルエットは、季節外れの奇妙な果実のようにも見えた。

 だが良く見ると惨めな状況だった。肌は死斑によって斑になり、蠅がたかり、カラスに食い荒らされたのか片目が無かった。

 僕が蟲を与えていたら、こうなることはなかったのだろうか。

 その後、僕は地元の警察に連行された。理由は、僕が「見知らぬ」若い男であることだけだった。

 明らかな不当逮捕。令状も何もない。それでも僕は何も言う気になれなかった。彼らはそれを見ると、僕が罪を認めて神妙にしているのだと思い込んで、隠す様子もなく満足げに笑った。どうやら彼らの書いたシナリオでは、僕は街から逃げてきた幼児狙いの性犯罪者、いわゆる「ロリコン」であり、性的な悪戯目的にあの子をさらい、騒がれたので殺して自殺に偽装したということらしかった。名家の娘が虐待の果てに家出、自殺などあってはならないらしかった。

 露骨な誘導尋問が延々と続いたが、僕はほとんど聞いていなかった。

 頭の中にあるのはただ一つの疑問だけだった。


 ――僕が蟲を与えていれば、こうならずに済んだのだろうか?


 答えは出ない。しかし、少なくともあの子はそう思っていたのだろう。だから、家のすぐ傍で首を吊った。

 あれは、僕に対する子供じみた最期の「あてつけ」だったのだろう。

 幾ら誘導尋問を続けても一向に引っ掛からない、それどころか何一つ答えない僕に業を煮やした刑事が掴みかかった。もう一人記録している刑事が居たが、止める様子もなかった。

 「ロリコン」だの「変態」だの、根拠のないあからさまな罵倒の言葉が響く。もっとも、それは遠い世界の出来事のように思えた。自分とは無縁の遠い世界。居間のテレビで三流サスペンスドラマを見ているだけのような気がした……なぜなら、僕の頭を支配しているのはたった一つの疑問しかなかったから。

「もう帰っていいぞ」

 突然ドアが開いて、また別の刑事らしき男が顔を出して言った。

 僕を捕まえていた刑事はさも残念そうに、床に叩きつけるかのように僕を放り出した。

 警察署の外に出ると、待っていたのは例の老人だった。外はもう暗かった。

 「あの家の者であることをどうして早く言わなかった」と、老人は少し忌々しげに言った。

 老人が言うには、いかに名家といえど、代々「蟲を守っている」あの家の人間だけには手出しできないそうだ。もっとも、あの子の家にとっては、それが憎たらしく思えてならないそうだが。村の権力者にとっては、自分たちが「不可侵」の領域があることそのものが気に食わないらしい。だから、自分からあの家のことを一切言わないのを良いことに、僕を不当に拘束したのだ。


 ――腐った村。


 そんな言葉が、頭の片隅に湧いた。

 老人に礼を言って途中で別れた。老人は少し心配そうにしていたが、今は一人で歩きたかった。


 遠回りして、街灯のほとんどない田畑の脇の道を歩いた。

 夜の闇はこの季節特有のむわりとした熱気を含み、ぐしゃりと歪んでいるような気がした。空気を嗅ぐと、あの子の死体の腐臭が、どこかに漂っているように思えた。

 頭は冷えそうになかった。もともと冷えるような季節でないと言ってしまえばそれまでだが、真冬でも冷えるとは思えなかった。

 ――腐っている。いや、狂っている、のか。

 そんな言葉が口をついて出た。

 田の水が月の光を浴びて黒々と光っている。浅いはずなのに、底が見えない。

 まるで淀んだ水の中に棲む魚のようだ。淀んだ水の中ではすぐ目の前も見えず、それでも泳ぎ続けるしかない。死ねば自分も腐ってその水と同化していく。

 それでも、まだ物語ならば救いが用意されているかもしれないが、現実は違う。物語と違って、幾ら進み続けてもその先に「何か」が待っていてくれる訳ではない。

「――『楽になりたい』……か」

 あの子は確かにそう言っていた。そうだ……僕も楽になりたい……ヴヴヴ! ヴヴヴ!

 無遠慮な携帯電話のバイブレーションで思考を中断される。……あの女からのメールだ。内容はとりとめのないこと。

 僕は闇の中で光る画面をぼんやりと見つめていたが、やがてこう返信した。


女の子が死んだ。

僕が殺した。


十二


 どのぐらいの時間が経ったのだろうか?

 時間は、止まっているようにさえ思えた。絶え間なく流れている時の流れさえも、遠い世界の出来事に思えていた。

 いや、きっとその方が良い。このまま闇に覆われて、ずっと日が昇らなければ良い。

 ――そうすれば、また空虚な一日が始まらずに済む。

 空虚……そうだ。何もない。歩き続けたところで、目的地すらないのだ。いつまで経っても着くはずがない。

 それならば……ヴヴヴヴヴヴ――

 メール……ではない、通話の着信のバイブレーションだ。

 僕は、何も考えずにそれに応じた。普段ならまだわずかばかりの苛立ちを感じたはずだが、もうそれすらなかった。

「何があったの!?」

 声……あの女……。

「あんなメールがあったから、気になって――」

 メール?

 ……ああ……そうか? そういえば、送ったような……そんな気もする。

「……別に……何もない」

「嘘! あなたが冗談であんなメール……するはずがないじゃない!」

 女の怒鳴り声が聞こえる。……まあ、いいや。どうでもいい。

「とにかく事情を説明して!」

 事情? 知ったところで信じるのか? ……自分でも信じられない。いや、信じたくない話を。

「馬鹿げてる、信じられるはずがない」

「いいから話して!」

 今まで聞いたことのない口調。

 なんだ? なぜそんなに慌ててる? ……放っておいてくれれば良いのに。

 まあいい。話してやれ。どうせ信じるはずがない。

 僕はゆっくりと話しだした。蟲に関わる異様な世界。歪んだ村の出来事を――。

 不思議なことに、それは淀みなく説明することができた。――僕自身この異様な世界を、頭の中で整理できずに居るのに。

 彼女は時折質問するか相槌を打つ程度で、それ以外はずっと聞いていた。

 僕が少女の自殺と、それで連行されたことを話し終えると、それでおしまいだった。

「そんな……」

 電話の向こうでは戸惑いを隠せないようだった。

 彼女はきっと、僕は気が狂ってしまって幻覚でも見たと思っているに違いない。当の本人ですら、受け入れがたい「事実」なのだ。何も知らない他人にとっては、まだダリの絵画の方がリアリティはあるだろう。

 しばらく無言が続いた。

 僕は電話を切ろうかとも思ったが、そのまま放っておいた。

「――ねえ、あなたが殺したんじゃないわ」

 沈黙の後、最初に聞こえたのはそれだった。

「どうしてそう思う?」

 やはり切ろう。気休めは要らない。

「確かに……あなたが蟲を与えていれば、その子は幸せに死ねたかもしれない。でも、死ねる『だけ』……結局は、そんなの本当に幸せじゃない!」

「つまり『死ぬ』ことは『幸せ』には決してならない、と? ……根拠は?」

「もちろん、死を望む人が大勢いるのは知ってる……けど、それは解決じゃない! 逃げるだけ!」

 彼女はまるで自分に言い聞かせるかのように語気を荒めた。

 僕は声を上げて笑った。

「どうしたの?」

「いやなに……正論だよ! 確かにそうだ! 馬鹿らしいぐらいに正しいよ!」

 面白い。今時、こんな馬鹿げた正論があるなんて。……全く!

 僕は笑い続けた。自分でも狂ってしまったと思える程に。笑い続けて、そして泣いた。気が付いたら泣いていたと言う方が、正しいかもしれない。

 僕は泣きながら笑っていた。自分でもみっともないと感じる程に、声を出して泣いていた。その声は、電話の向こうにも届いているはずだった。


「どう? 少し……すっきりした?」

 やがて、僕が泣きやんだ頃、彼女はそう言った。

「ああ……うん」

 他に言うことがあるように思ったが、それしか言えなかった。

 僕はふと気付いた。

「でも、いいのか? こんな夜中まで電話してて……明日が辛いんじゃ――」

「実は前から、伝えなければならないことがあって――」

 そうか。だから、あんなに何度も連絡を。しかし……「何」を?

「前から、言おうと思ってたの。でも、言えずに……」

 僕は待った。早く聞きたかったが、待つべきだと思ったから。

「『死ぬのは解決じゃない』……私、そう言ったよね?」

「ああ」

「『逃げるだけ』とも、言ったよね?」

「うん」

 少し苛立ちが蘇ってくるのが分かった。さっきまでは何も感じなかったのに。

 次の言葉までは、随分と間があった。何かをためらっていることが良く分かった。

 しばらくして、ようやく彼女の声が響いた。

「私、結婚するの。相手は――」

 あの男だった。噂になっていた、あの最低の男だ。

「……それじゃあ、日程が決まったら、招待状を送るから」

 彼女はそう言い終えると、そそくさと電話を切ってしまった。


 ――あの部屋を開けよう。


 唐突にそう思った。理由などもはやどうでも良かった。ただ、疲れていた。

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