五.懇願
九
「――『蟲』を、ください」
女の子は、繰り返しそう言った。
掴んだ手が、弱々しくズボンを引く。
よく見ると、可愛らしい顔をしている。だからこそ、左目の周りの痣が余計に醜く見える。
この痣は、軽くぶつけたとか、子ども同士のケンカで付くような感じではなかった。だとしたら……。
「駄目だ!」
僕はきっぱりと言い放った。
そうだ。もしそうだとしても、渡す訳にはいかない。こんな小さな子の自殺幇助をするなんて馬鹿げている。
「どうして……?」
女の子は、僕の顔を覗き込んでそう言った。
僕は答えられなかった。
女の子は歌うように続ける。
「どうして……楽になったら駄目なんですか?
どうして……辛い思いをして生き続けなければ駄目なんですか?
どうして……――」
――なぜ……だろうか……?
改めて考えてみると、反論できる理由が無かった。
確かに、無理に生きる必要なんてない。死にたくなったら死ねばいいし、楽になりたいのならそうすればいい。
よく「代わりになんてなれる人間が居ないから」とか言うが、全部はともかく、個々の役割なら容易に代わりが用意できる。要は、自分が必要としている役割さえ果たせれば、必ずしもその人自身である必要はない。
実際に、企業は不要な人間をリストラし新たに必要な人間を雇い、個人でも離婚してから再婚もする。つまりは……そういうことだ。
個々人は確かに唯一無二の存在かもしれないが、誰もそんなもの必要としていない。
「私……痛いよ。すごく……お父さんもお母さんも私のことが嫌いなの……」
女の子の声で我に返った。
この子は……やはり虐待を受けているのだ。
ズボンを引く手は、さっきよりも強くなっていた。
「駄目だ……あんなもの……」
僕はまた言い放った。しかし、その声にはさっきほど力が無かった。
――お前は、あの「蟲」を自分に使いたいだけなのではないか? そのために、独占したいだけではないのか?
自分自身にそう問いかける声。分裂症とでも、言えば良いのだろうか。
「楽に……なりたいよ……どうして、どうして……駄目なの?」
分からない。女の子の問いも自分自身も……全てが分からない。
「……駄目だっ!」
僕はとっさにその手を振りほどくと、走り出した。
「楽に……なりたいよ……」
背後でぽつりと聞こえた。
――恐い。
自分でも、何が恐いのか理解できない。ただ、恐い。
家に帰りつくと、毛布を頭からかぶった。
震えが止まらない。気温は三十度近くあるというのに。
目を閉じると、あの女の子の顔が浮かんだ。
――「楽になりたい」……か。
それは決して間違ってはいない。少なくとも、抗う理由は僕には無かった。
十
翌朝。僕は仕事に遅れることを連絡すると、役場に向かった。
あの女の子の虐待のことを、地元のお役所なら多少はなんとかできないかと思ったのだ。
しかし、無駄足だった。
「ここいらはいろいろと複雑でしてね……」
そう言いながら役場の人間は愛想笑いを浮かべていた。
その説明は酷く遠回しで分かりにくいものだったが、要約するとこういうことらしかった。
あの女の子の家は、昔からある「名家」の類らしく、その関わること、特に家庭内のことについては地元の人間は立ち入りできないとのこと。たとえ、あの女の子に「虐待」で付いた生傷があったとしても、それが「厳しいしつけ」の結果だと言われればそれまでだそうだ。
「まあ、こういったことは街の人には馴染みがないでしょうが――」
――障らぬ神に祟りなし。
自分は厄介事には首を突っ込みたくないのだという、ひたむきな自己保身の姿勢が丸見えだった。
僕は適当に挨拶すると役場を出ていった。
外は蒸し暑くて、歩いているとめまいがした。だが、そのめまいは暑さのせいだけではない気がした。
「蟲を――」
ふいに聞いたことのある声が聞こえた。
あの老婆だった。初めて会った時に飛びかかってきた、あの老婆だ。
老婆は以前と同じ言葉を繰り返し、物欲しげにその両手を伸ばしてくる。
しかし、なぜだろうか――以前と違って、全く恐いとは思わなかった。むしろ哀れみにも似た感情を抱いた。
老婆もそれに気付いたのか、以前のように襲いかかってくる様子はない。「蟲を――」と、繰り返しながら迫ってくるものの、どこか勢いに欠けているように感じる。
「なあ……」
僕はゆっくりと口を開いた。老婆の動きがピクリと止まる。
「あんた……本当はおかしくなんかなってないんだろ? だから……あの蟲が必要なんだろ?」
そうだ。本当に狂っているのなら、苦痛すら感じない程に狂ってしまっているのなら、あんなもの必要ない。
視線が合う。虚ろな目。どちらも動かない。
一瞬の静寂の後、老婆は崩れ落ちた。嗚咽。暑さを忘れたかのように、ただ泣き続けている。
僕はその場を後にした。何かしようにも、出来ることは何もなかった。
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