四.執着


 小さな足跡は夜毎に増えていった。

 深夜まで起きて、見張っていれば足跡の主を確かめることができたのだろうが、そうもいかなかった。

 幾度となく繰り返される「夢の誘惑」に、僕は心身共に疲れ果てていた。そのため、仕事から帰ってくると、適当な食べ物を飲み込んですぐに眠ってしまうのだ。

 だが……その結果、またあの夢が繰り返される。


 ――バリバリ……カラン。バリバリ……カラン……


 それが、延々と、再び目覚めるまで続く。

 決して終わらない作業。それはギリシャ神話の岩を運び続ける物語に似ている。岩を山頂まで運ぶことを命じられた者が、苦労して運ぼうとするが、その岩は何度運ぼうとしてもまた底まで転がり落ちて、やり直しになるのだという。その終わりのない作業は無駄な努力を象徴的に表しているという。

 もっとも、それとは大きく異なる部分があった。その物語では、その作業はあくまでも終わりのない「苦痛」として描かれる。しかし、僕はこの夢を、夢の中で繰り返す作業を苦痛とは感じていない。むしろそれはとても甘美で「快楽」とさえ感じることもあった。


 ――もうすぐ。もうすぐだ。もう、良いんだ。……苦しまなくて、良いんだ。もう……


 だからこそ恐ろしい。僕は「終わり」を自ら望んでいるのを、否定する気が無いのだ。

 昔、リストカットがどんな気分なのかを知りたくて、試しに手の平を切ってみた。本来なら手首を切るべきだったのだが、もし深く切り過ぎて死んでしまっては「どんな気分」か分からないだろうと思ったのだ。

 痛かった。……それと同時に、なぜか安心したことを覚えている。

 それから数年経ったが、特に何か変わったように感じない。ただ、相手の望む顔を作るのと頭を下げるのが上手くなったと感じるだけだ。本当に、それだけだ。

 結局のところ、僕は何も得ていない。あったのは失うことばかり。この家や遺産だって、差し引きではどう考えてもマイナスだろう。

 僕は冷蔵庫を開けた。わずかばかりの食料しかない。これが今までしてきたことと等価、あるいはそれ以上だとは到底思えない。

 まあいい。今日は定休日だ。まだ無駄なことをしなくて良いだけましだ。

 僕はごろりと横になった。その時、誰かが玄関の方から呼ぶ声が聞こえた。

 この家にはチャイムなんて近代的な物はなかった。鍵だって必要性があるのか怪しいものだ。

 僕はしぶしぶ玄関に向かった。

 玄関の戸が開いていて、恰幅の良い初老の男が立っていた。背後に見える庭先には黒塗りの車。

 嫌な感じがした。

 それに気付いた様子もなく、男は挨拶もなく話し出す。

 五千万……どうやら、それで家を譲ってほしいとのことらしい。

「申し訳ありませんが……この家は先祖の遺してくれたものでお譲りする訳には――」

 僕はとっさにそう言った。

「いえいえ、そこを何とか――」

 男は喰い下がるが、僕は同じ理由を言葉だけ変えて繰り返した。

 その何度目かに、とうとう男は「気が変わったら連絡してほしい」と言うと、名刺を渡して帰って行った。

 やたら大きい車で無遠慮に排ガスを噴き出していく様子を見ながら、しばらくぼんやりとしていた。

 なぜ、売ってしまわなかったのだろう?

 男の目的は、間違いなくあの蟲だ。おそらく、何も知らない若造が住んでいると知って、今なら手に入れられると思ったのだろう。

 売ってしまえば、まとまったお金が手に入って、この村やこの家とも離れられる。それなのに……。

 僕は名刺を見た。聞いたことのない会社名に「代表取締役」という肩書きが付いている。

 捨ててしまうべきか迷ったが、とりあえずポケットにねじ込んだ。



「開けてはならない……開けてはならない……開けては――」

 気が付くと、そんな言葉をうわ言のように繰り返していた。

 そして、目の前には「開かずの間」の扉。いつ、どうやって来たのかさえ覚えていない。

 しかし、それは事実なのだ。実際に目の前にこの扉があるということは、自分自身で歩いてここに来たに違いない。

 今、何時頃だろうか?

 隣の部屋の窓から外を見たが、まだ暗かった。

 夢遊病……というのだろうか? 精神科医に相談すべきだろうか?

 そこまで考えて、僕は首を横に振った。

 ――馬鹿らしい。「開かずの間」、「蟲」……こんなものどうやって説明しろと? 入院を勧められるのがオチだが、生憎そんな金はない。

 寝室に戻ると、柱時計がカチカチと時を刻んでいた。正確な時間は示していないし、直す気もおきない。

 確かにこの部屋の、この布団から起き上がって歩いていったのだろうが、全く思い出せない。いや、思い出したとしても、それが何の解決になるというのだろう。

 カチカチと、無愛想に狂った時を刻む音だけが響いている。

 泣きたかった。泣こうとした。だが、涙は一滴も出なかった。

 自分は、あまりにも乾いてしまった。――僕は、ぼんやりとそう思った。

 慣れ過ぎた。慣れ過ぎて、苦痛というものが日常になってしまった。理不尽な扱いが、当たり前になってしまった。歪んだ環境が、普通になってしまった。

 かといって、苦痛を感じないかといえばそうでもない。感じるが、それはどこか遠い世界の出来事のようで、苦痛を感じている肉体を離れて魂は当てもなくさまよっている。そんな気がするのだ。

 やがて黒い帳が下りてきて、僕は意識を失っていった。その先に待っているのは、あの悪夢なのに――。


 朝。僕はぼんやりとしながら、仕事をしていた。

 仕事――と言っても、特に客が来る訳でもない。なので、具合が悪いのなら休んでも良いと言われているが、あの家に居る方が苦痛だったので出てきている。

 今日は珍しく、数人の来客があった。もっとも、用があるのは前の自販機の方で、店の方は覗きもせずに通り過ぎていった。正直、必要なのは自販機の方だと思った。

 夕方。

 いつものように、適当に片付けをして帰途に着く。のどかな田園風景と言えなくもない、何もない道を歩く。

 その時、道端で女の子が遊んでいるのに気付いた。だいたい七歳ぐらいの女の子だろうか。

 女の子は向こうむきにかがみこんでいるので、顔はよく分からない。ただ、肩のあたりが上下してるので、何か手作業をしているのだと見当がついた。

 僕は気になって覗きこんだ。

 虫が、居た。

 周囲には、虫のもげた手足が散らばっている。

 女の子は、バッタのような虫を手にして、熱心にその手足をもいでいた。それを終えると、目の前に置かれた漆塗りの碗に手足の無くなった虫を放り込む。

 ヒクヒク、ヒクヒク――。

 虫は逃げようと懸命にもがく……が、逃げられずに椀の中でもがき続ける。

 女の子が、笑ったように思えた。

 僕はとっさに立ち去ろうとしたが、遅かった。小さな手が、ズボンを掴んでいた。

「――『蟲』を、ください」

 女の子は思いのほか丁寧な言葉遣い、無邪気な笑顔でそう言った。

 その左目の周りには、痛々しい痣があった。そちらの目だけ、焦点があっていない気がした。

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