三.蟲
五
帰りつくと、家に住むように言った老人にすぐに電話した。
「虫」……それがあの「開かずの間」と何らかの関係があるだろうと思って、老人に問いただすことにしたのだ。
電話では話し辛いからと、老人はすぐに行くとだけ言って電話を切ってしまった。
僕はぼんやりとして、あの部屋の前に立った。
「虫」……ありふれた言葉、だが何かが引っ掛かる。人間が飼う虫といえば蚕や蜜蜂が思い当たるが、こんな部屋でそれを飼っていたとは思い難い。それに、板を打ち付けている錆びた釘からも、この部屋が閉ざされたのはもう随分と前だと考えられた。……それでも生きている? ありえない。
老人は電話してから十分もせずにやって来た。
僕の顔を見るなり「あの部屋は開けていないだろうな!?」と強く言った。
無言で頷くと安心したように玄関に座り込んだ。
それから、老人の要領を得ない説明が延々と続いたが、要約するとこういうことだった。
「開かずの間」は、古来より伝わるある「蟲」を閉じ込めるための物だという。そもそも、この家自体が、その蟲を閉じ込めるための檻のような物であり、その部屋に外部から湿気や光等の刺激を与えにくいように間取りも作られているのだそうだ。この家に住む者は代々、蟲を外に逃がさぬようにする役割を与えられてきたらしい。
しかし、僕はこの答えに疑問を抱いた。
その蟲のことを何も知らされていない自分が住んで何の意味があるのだろうか?
そんな危険な物ならば、あの老婆はなぜそれを求めたのか?
僕はすぐにそれを口にした。老人はゆっくりと答えた。
「家」というのは、誰かが住んでいなければすぐに朽ちてしまうのだそうだ。大した年月も経っていないのに、放置された家屋はすぐにボロボロの廃墟となってしまうのは、そのためだという。だから、そこに住む者が役割を理解しているのかは重要ではなく、空家にしないことが重要なのだそうだ。
――やっぱり。
騙されていた。街の人間もここの人間も同じ。他人を騙してうまく使うことしか頭にないのだ。
この老人も、世間知らずな若造をうまく利用してやろうという気しかなかったのだろう。仕事を世話したのも、ここから出ていき辛くするために違いない。
だが、老人はまだ確信の部分を答えていないことに僕は気付いた。
その蟲とは何なのか? 老婆にとってどういう意味があったのか? ――を、だ。
老人はそれ以上語ろうとはしなかったが、僕がそれを問うと、渋々といった具合に口を開いた。
昔、この村には医者が居らず、また居ても医者にかかる金のない百姓ばかりだった。いや、たとえ医者にかかってもほぼ同じこと、当時の医学では治せない怪我や病気の方がはるかに多かった。そんな訳で、重い怪我や病気となった者は、もがき苦しんで死んでいくより他はない。
だが、救いはあった。それは一種の諦めとも言える物だったが、死んでいくしかない者に、それは確かに救いだった。
それが、「蟲」。鬼が里に下りてきた時に持ってきたと言われており、実際には誰がどのように持ち込んだのかは定かではない。
ただ、それは非常に小さな虫、一種の寄生虫で、寄生した宿主の感覚と運動能力の全てを閉ざしてしまう。
まず、毒によって視神経を奪うので、寄生された者は急に暗闇の中に放り出されたように感じ、それから次々と他の感覚も奪っていく。全ての感覚を奪われてもまだ運動能力は少し残っているそうだが、残っていてもほとんど意味が無く、最後にはそれすら奪われて意識も閉ざされてしまう。あとは蟲の繁殖の温床として機能し続けるしかなく、徐々に衰弱して死に至る。宿主が死亡してしばらくすると、蟲は体を喰い破って出てくるため遺体はすぐに焼却される。
「それのどこが『救い』なんです!?」
老人は深いため息をついた。
「蟲に寄生された人間は何も感じなくなる。何の苦痛もなく、死の恐怖を感じることもなく死んでいける。……それは死ぬしかない人間にとっては、唯一の救いだろう。傍で見ている人間はともかく、な」
老人の目には、後悔と苦痛が見てとれた。
それならば、あの老婆は……希望を失った自分自身に使うために……。
「でも、もう随分と前から閉じ込めてあるんでしょう? それならばもうとっくに死んで――」
言い終わる前に老人は首を横に振る。
「クマムシという虫を知っているかね? ……寄生虫ではない微小な虫だが、クリプトビオシスという代謝のほぼ無い、エネルギーを必要としない休眠状態になることができる。この虫はまた条件が揃うと何年も経っていても活動を再開できる……それと同様のことがあの蟲にもできるらしい」
それならば……その蟲はまだ生きている? 封印されて眠っているだけで?
遠い世界、ファンタジーの世界の物語を聞いているように感じた。英雄に封印された悪しき魔物。それは封印が解けるのを待ち続けている。しかし……
「――焼き殺して処分してしまえば? 休眠状態になれたからといって、不死ではないんでしょう?」
そうだ。しかし、これは現実の話、それに相手は単なる寄生虫だ。遺体ごと焼却すれば良いのなら、焼き殺せるはずだ。
「それができれば……な」
老人は苦々しげに答えた。
「だが、誰がする?
あの蟲に対して、村の人間は憎しみと畏怖の念を同時に抱いている。いや、単に惜しいだけかもしれん。……とにかく、誰も手だしはできんのだ」
忌々しげな口調。それでいて、どことなく執着を感じる。
結局のところ、この老人もその蟲が欲しいのだろう。どう頑張っても、どうせ十年もせずに死んでしまうだろうから。
あらゆる苦痛と恐怖から解放される「蟲」。本心では、それが欲しくて欲しくてたまらない。たとえ、それが禁忌の物だとしても、だ。
そこで話は途切れた。それきりだった。
僕はもうそれ以上何も聞かなかった。何も聞きたくなかったから。
老人は帰り際に言った。
「もし処分できるのなら、してみるといい」
それは挑発にも嘆願にも聞こえた。
六
それから、夢を見るようになった。
その夢の中で、僕はあの部屋の前にたたずんでいる。
右手には釘抜き。
それから、バリバリ……バリバリ……と、打ちつけられた板を剥がし始める。
何かに憑かれたように、一心不乱に剥がし続ける。迷いもためらいもない、機械的な動き。それは、捕らえられた虫の脚が蠢く様子にも似ていた。
バリバリ……カラン。バリバリ……カラン。
廊下には、板を剥がしそれを捨て置く音だけが響く。
光のさしこまない窓のない廊下で、剥がされた板を打ちつけていた釘の先だけが鈍く光っている。
あと一枚……もう一枚……僕は剥がし続ける。
だが、終わらない。一枚終えたと思ったら、また一枚増えている、そんな風で終わりが無い。
これはいくら続けても無意味だ……分かっている。
それでも、板を剥がし続ける。薬物中毒者のように、そうすることしか頭にない。
それを延々と繰り返して、夢は終わる。
目が覚めると、汗を随分とかいていた。
カルキ臭い水をコップに入れると、それを喉の奥に無理矢理流し込んで、せき込む。
外を見ると、まだ日が出てから間が無いようだった。この季節にしては早起き過ぎるが、また寝たいとも思わない。
毎夜繰り返す、単調な夢。
それは蟲が呼んでいるのでもなければ、誰かが呪いをかけているのでもない。……ただ、僕自身が魅入られているのだ。蟲に。
結局のところ、僕には生きていても何もない。
こんなことを言うと、「若いんだから!」と、あたかもそれが万能である証拠のように言う年食った輩がいるが、そういう人間が一番よく分かっていない。
若いからと言ってそれが何の解決になると言うのか? ……そもそもそう言う人間は、彼ら自身が若い頃にそうだったとは到底思えない。
若いから……死ぬまでの苦痛の時間が長い。若いから……感覚が鈍っていない分、より苦痛を感じる。
僕があの老婆と違うところと言えば、最初からすがる程の希望がなかったということだ。だからあの老婆のように絶望して狂うこともできず、ただ淡々と生きている。
それは死刑執行を待つ囚人のようなもので、生きていたとしても意味があるとは到底思えない。
僕はふと枕元の携帯電話に目を落とした。
チカチカと、未読メールを告げるLEDの光が点滅している。
おそらく、あの女からだろう。僕は携帯電話を手に取った。
丁度良い。こんな早朝に電話してやれば迷惑がって、こちらと連絡しようとするのを止めるかもしれない。
着信履歴からかけると、出るまでにかなりの間があって最初はけだるそうな声が聞こえた。
「お久しぶりです。……お元気ですか?」
今まで散々連絡を無視してきた挙句、早朝にこの言葉はないだろうと自分でも思う。
『ねえ、今までどうしてたの!?』
「どうもしてませんよ。ただ、連絡したくなかったもので」
『……怒ってる?』
「なぜ?」
『今まで、時給にもならないのに、何度も遅くまで手伝って貰って……それなのに、辞める時も何もできなくて……』
――この女、頭がおかしいんだろうか?
すぐにそう思った。
どうせ、僕は使い捨ての道具に過ぎない。利用するだけ利用して要らなくなったら捨てれば良いのだ。
今の社会では、他人をいかに上手く使いこなすかが本人の能力として評価されるというのに。
「そんなこと、気にすることじゃありません。手伝ったのも、たまたま手が空いていて、帰ってもすることがないからで……」
そうだ。馬鹿らしい。野良猫に弁当の残りを恵んでやるのと同じことで、感謝されるようなことでもない。
『そう……相変わらず優しいのね。でも……』
「『でも』……何ですか?」
わざと間をおかずに訊いた。
『ううん……連絡してくれて、ありがとう』
僕はためらわずに電話を切った。
調子が狂う。これで縁が切れると思ったのに。
携帯を放り出して縁側に出る。
空気はまだ涼しかったが、昨夜雨が降ったのか少し湿気を帯びていた。
縁台に腰をおろして地面を見た時に、自分の顔がピクリと引きつるのが分かった。
足跡が残っていた。
もちろん僕の物ではない。あの老婆の物にしても小さすぎる足跡だった。
その足跡は、家の周囲を執拗に歩きまわっていたことを示していた。
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