車を好きになる②

 「三度の飯より車が好き」というために、僕は漫画喫茶をフルに活用したわけだが実りはなかった。しかし僕はそのふがいない結果を悲観しない。

 なぜならば、車の本質は漫画喫茶に関係ない、ということに気がつけたからだ。車の魅力は、かっこよさにある。漫画や小説でいくら車の魅力を読んだところで、本物のかっこよさにはかなわない。

 この気づきの裏には、ある一人の男の存在がある。


 漫画喫茶から帰宅した次の日、僕は奥さんに連れられ、ある場所へと向かっていた。ついた先は、古い一軒家である。チャイムを押すと、中から女性の声がする。


「あー、いらっしゃい」


 そう声をかけて来たのは、奥さんの旧友である。

 彼女は、奥さんの大学時代の同級生で今でも交流をもつ友人の1人だ。奥さんには、そういう友達があと1人、トータルで2人いる。この時点で僕よりも友人が多いので、奥さんのコミュニケーションスキルは僕より大幅に優れている。頭があがらない。


 家にあがらせてもらい、手みやげを渡す。こういう細やかな心配りが奥さんのいいところだ。もし僕ひとりであれば、手みやげなんて言葉すら思い浮かばず、うへらうへらしながら土間でもじもじ立ち尽くすだけで精一杯だったはずだ。


 案内された部屋の奥に一人の男が座っていた。片方の手には何かの液体が入ったカップ(今はなつかしい、ケロケロケロッピ柄)を持ち、もう片方の手には、赤い小さな車の玩具をかたく握りしめている。


 奥さんと友人の目を盗み、僕はその男のそばに忍び寄る。車の玩具を見る為だ。彼がこれほどまでにきつく握りしめているからには、この車にはよほどの魅力があるに違いない。

 周りに流されることのなく社会や異性とはかけ離れたこの場所にいる彼こそが真の車好きであり、その彼がいたい程に握りしめている車こそが真の車好きが好む、アクセサリー感覚で選んだのではない車ではないのか、と読んだのだ。

 僕はその魅力の固まりであるはずの車に手を伸ばし、そっと声をかける。

 「これ、おじちゃんに貸してくれる?」

 そう聞くと彼はニヒルな笑顔をつくり、車を無言で差し出してくれた。無骨だ。

 彼の手から僕の手へと渡されたその車は、彼のよだれとよくわからない液体で濡れていた。

 その車を仔細に眺める。よだれでテカっているがそこは無視する。真っ赤なボディに、黄色いMの文字が刺さっている。表面に出ている部分から推測するとMの足の部分が後部座席に突き刺さっているはずだ。どうやって座ればいいのかわからない。もしかしたら、運転席と助手席だけの2人乗りなのかもしれない。一瞬、無駄な構造だと思ったが、もしかしたらこの無駄こそが真の車好きにはたまらないのかもしれないと思い、無駄じゃん、という言葉を飲み込む。後ろにある程度引くと進みだす、チョロQ構造だ。

 「ねえ、この車のどこが好き?」

 と男に質問すると、

 「カチー」

 とまたもニヒルな笑顔で返してくる。

 カチー?なんだそれは。と頭でその二文字を反芻する。しばらく頭の中の迷路をさまよい、気づく。

(価値か!)

 しかし僕は思う。このMが刺さった車に、いったいどんな価値があるのか。ハッピーセットのおまけでしかないこの車の価値。もう手に入らない、本で言えば絶版書的な価値なのか、と考えていると、男の母がこういった。

 「かっこいい」

 僕は振り向き、え、と言う。急に褒め言葉をかけられ、僕はテンパる。産まれてこのかたカッコいいと言われたのは、母親とおばあちゃん、奥さんからの3人だけだったので、どう返していいか分からなくなったのだ。奥さんに至っては、しつこくカッコいいかどうか聞いて上でやっとこさ「うん」とか「まあ」とか言ってくれるだけなので、数に含んでいいのかわからないが。

 テンパる僕に、男の母が続けて言う。

 「今、かっこいいっていってたんだよ」

 なるほど、先のかっこいいは、僕にむかって言われた言葉ではなかった。ただ男の通訳をしてくれていただけなのだ。

 「なるほど、かっこいいから好きなのか」

 と男に言葉を返す。男は満足そうににやける。

 そう、かっこいい。これこそが車好きの車好きたる精神を刺激する、唯一無二の理由である。

 

 が、果たしてこれはかっこいいものなのか。まるっこくデフォルメされたフォルムにMが刺さり、後ろに引っ張ると進みだすこの物体がかっこいいのか。ここでぼくはカッコいいの基準がわからなくなり、男に車を返した。男は車を手にすると、なんの迷いもなくその車を口に含んだ。

 車をほおばる彼を見ながら、僕はかっこいいの基準とはなにか、を思索する。それこそ人によりけりなのだろうけれど、それじゃあ話が進まない。となれば、ある程度の平均値や意見を取り入れ万人にある程度受け入れてもらわなければならない。


万人にうまく説明するにはやはりこのとっておきの言葉を引用するしかないだろう。


「カッコイイとは、こういうことさ。」


 ジブリ映画の紅の豚のキャッチコピーである。糸井重里の名作コピーの1つだ。キャッチコピーは時代を反映する側面ももっているので、この言葉はもってこいだ。

 

 ポルコの無骨で不器用ながらもまっすぐな生き様こそがかっこよさだとこのコピーは言っているが、はたしてあの車はかっこいいにあてはまるのか。無骨とは、礼儀がなっていないだとか、スマートではない、洗練されていない、とかの意味がある。不器用はその言葉の通り、器用ではないという意味だ。器用ではないということは、余計な作業が増えたり失敗がおおかったりと無駄が多い、という事にも繋がる。

 となれば、洗練されておらず、無駄がおおく、まっすぐな生き方をしているものがカッコイイ、となる、はずだ。


 ここで男の車に話を戻す。

 まるっこく洗練されておらず、無駄な箇所が多く、まっすぐにしかすすめない。すなわちこれは、正にかっこよさそのものを体現した車なのである。


 ハッピーセットがかっこいい。


 これは盲点だった。となれば、この濡れに濡れた赤くまるっこい黄色のMが刺さった物体を好きになれば、真の車好きになれる、という算段が整うわけだ。


 こんなところで真の車好きに出会えるという事は、神の導きだといっても過言ではないだろう。漫画喫茶で見つからなかった車の魅力は、彼によって提示されたのだ。


 僕は彼に、もう一度車を貸してもらえるように頼んだ。しかし何の因果か、男は貸してくれない。もしかしたら、僕が車の魅力に気がつき、取られてしまう可能性を危惧したのかもしえれない。男の母親にきづかれないように、車を握っている指を小指から順番に、慎重に一本ずつはがしていく。

 あと残り2本となったところで、男の表情が急に曇り、今にも泣きそうな顔になった。あきらめようと思ったのだが、真の車好きになるためには多少の障害も乗り越えなければならない。心を鬼にして、残り2本をはがしていく。

 やっとのことでハッピーセットの車を手中に収めた僕は、大満足だった。かっこよさの権化たる車。それが僕の手元にある。さっきよりも濡れているが、それはもはや小事にすぎない。むしろ輝きが増して見える。これからは一目を憚らず、車好きを公言できる、と思った矢先、男が泣き出した。

 男の泣き声に振り向く奥さんと男の母親。2人の目に映ったものは、泣きわめく2歳児と2歳児から玩具を取り上げる大人だった。

 言い訳をする暇もなく、頭をはたかれて怒られる。

 「子供相手になにしとる!はよ返したり!ごめんね、うちのおっさんが」

 奥さんは僕の頭をはたいたその手で僕から車を奪い、男に手渡した。かっこいい本物の車はあえなく僕の手中から離れてしまった。そんな状態だけれど、あえて言おう。


「僕ぁこう見えて車が大好きでね!三度の飯より車だよ!」と。

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