8.
何か黒いものがもつれあった。としか、由香の目には見えなかった。その直後、
「――うあああっ!!」
という絶叫が響き渡る。何が起きたかわからずおろおろしていると、
「きゃっ!!」
またしても突然、台所の電気がついた。スイッチを入れたのはアッシュだった。
「せっかくだから、観客にも見てもらわないとね」
由香は息を呑んだ。床にうずくまり、左手で右肘を押さえているインディゴ。彼の前には、ナイフを握ったままの右腕が、転がっている。
「闇の中で気配を殺してても、わかるんだよね。いざ攻撃を仕掛けてくる瞬間の、殺気でさ」
せせら笑うような、アッシュの声。痛みをこらえ顔をあげたインディゴが、「畜生……」と呟く。
「片桐くん!!」
叫んで、由香が彼の傍らに駆け寄った。そんな由香に、インディゴは苦しげな息の中で言う。
「逃げろ……と言いたいが、無理だな。俺の実力じゃ、足止めにもならねぇ」
「片桐くん、どうして……」
――そのあと、私は何と訊きたいのだろう。由香自身にも、それはわからなかった。
どうして、私を見張ってたの。
どうして、私を殺そうとするの。
どうして、お父さんを死なせたの。
どうして、私を助けてくれるの。
どうして……
「……わかんねー、わかんねーよ」
由香の問いを、彼はどう受け取ったのか。呟きながら、頭を何度も横に振った。
「ま、でも普通の任務より楽しかったのは事実だよ、インディゴ」
アッシュはにやにやしながら、残酷な問いを口にする。
「感謝の印に、一つ希望を叶えてあげようか。君と石堂由香、どっちが先に死ぬのがいい?」
インディゴは固く口を結んだまま答えない。
由香は、ぎらぎらとした目でアッシュを睨み返した。笑みを浮かべて、アッシュは二人に近づいてくる。
――何か、何かないの。あいつをやっつける手段は。
視界の端を、インディゴの右手が握ったままのナイフがかすめた。咄嗟にそれを掴みとって、両手で構える。アッシュがまた笑う。
「そんなものじゃ僕には勝てないよ?」
こんなものじゃ、あいつには勝てない。それは由香にだってわかる。あいつが触れたら、何だって灰になってしまうのだ。父の胴体。フォトスタンド。鞄。インディゴの右手。
はね返してやれたらいいのに。
鏡みたいに、あいつの力をあいつ自身にはね返してやれたらいいのに!
由香は強くそう念じた。想像した。自分の全身が鏡と化して、銀色に閃くのを。
アッシュの手が由香に伸びる。
〝想い〟は必ず力になるのよ。
イメージして。
そして、信じるの――
――それは、ほんの数秒のこと。
インディゴは見た。由香の身体の表面が、硬質の、鏡のような質感に変化するのを。光を浴びて、ぎらりとした輝きを放つのを。
数秒で充分だった。
由香の身体に触れたアッシュの手が、自らの能力をまともに被り、肘まで灰になった。
「な……」
驚愕するアッシュ。だが次の瞬間、インディゴの左手が、もう一本のナイフでアッシュの心臓を刺し貫いていた。
崩れ落ちるアッシュ。頚動脈で、彼の心臓が完全に停止したのを確認して、インディゴは由香を振り返った。
「何……? どう、なったの……?」
由香自身、何が起きたのかわかっていないのである。呆然としている彼女に、インディゴは言った。
「目覚めたんだな」
「……何が?」
意味がわからず、由香は訊き返す。
「奴が襲い掛かってくる瞬間、考えてなかったか? 自分が鏡だったら、みたいなこと。それがドリーマー、お前の母親の持ってた〝力〟だよ。自分の身体を、自分でイメージした通りに変えられるんだ。持続時間はもって数分らしいがな。お前、その力を受け継いでるんだ」
「嘘……」
思わず呟いた由香だったが、心の奥底では、すっと納得していた。あの言葉は、そういう意味だったんだ。
――お母さん。
「お前、これからどうする」
由香の物思いを破るように、インディゴが尋ねた。
「え……? どうする、って……」
「アッシュは倒した。だが、石堂由香という人間は、既に〈我々〉の抹殺リストに載っているんだ。アッシュが死んでも、二番手、三番手の刺客が来るだけだ――リストに載せちまったのは、俺だけどな」
ふっ、と自嘲気味に笑って、それから表情を引き締める。
「だがお前にはその能力がある。〈我々〉は、そういう能力者を集めたがっているんだ。自分から投降して〈我々〉に忠誠を誓えば、殺されずにすむ可能性は高い」
急にそんなことを言われても、由香には理解できない話ばかりだ。だが、一つだけ気になることがあった。
「……片桐くん。片桐くんは、私のお母さんを知っているの?」
「記録を読んだだけだよ。お前の母親は、〈我々〉の一員だったからな。だが脱走して――七年間逃げ回って、殺された、最終的には。お前とお前の親父は、裏切り者の関係者ってことで狙われたんだ」
コロサレタ。お母さんも。お父さんを殺したのと同じ連中に。
「わかるか? たとえお前がどこに逃げたって、逃げ切れやしねえ。助かりたかったら、〈我々〉に従うしかないんだ」
「……片桐くんは、そこに戻るの」
「そりゃダメだ。俺は既に、立派な裏切り者だからな」
残った左手で、アッシュの死体を指さす。「俺はお前と違って〈我々〉に造られた能力者だし、奴みたいな特殊能力もないから希少価値もねえ。俺を始末するのに、誰も躊躇なんかしねえよ。逃げるしか……つったって、ほんのちょっと余命が延びるだけだろうがな」
苦笑する彼に、由香はぎゅっと胸が締め付けられそうになった。
「……私を、助けたから。それでなのね」
「気にすんな。お前が殺されかけたのは、元々俺のせいだ――それに、お前の親父も、見殺しにした」
「片桐くんのせいじゃない。片桐くんは、その組織にやらされてただけなんでしょ?」
「お前の親父の前にも、何人も見殺しにした。俺自身が殺したこともある。お前が心配するような相手じゃねーよ、俺は」
陰のあるその笑顔に、由香は突如はっきりと悟っていた。
〝お前、その片桐くんに惚れたな〟
うん、お父さんの言ったとおりだったね。
私、この人が好きだ。
片桐くんが何者でも。人を殺してても。お父さんを見殺しにしてても。
ゴメンね、お父さん。
「――片桐くん。一緒に逃げよう?」
由香の言葉に、インディゴは血相を変えた。
「馬鹿かお前! 俺なんかと逃げたって、逃げ切れるもんじゃねーって。いつか絶対殺される。それに、逃げてる間ずっと、こそこそ隠れまわることになるぞ。マトモな生活なんか、もう二度と送れねえ」
「〈我々〉とやらに入ったって、マトモな生活はできないんでしょ? それに」
由香は、笑みを浮かべた。インディゴがはっとするくらい、凛とした笑顔だった。
「絶対殺されるって、決めてかかっちゃいけないと思うな。大丈夫。生きられる。生き続けようって強く信じれば、きっと想いは叶うの。諦めちゃダメだよ」
「お前……」
「由香って呼んでよ」
笑いながら、由香は言った。「片桐くんは、片桐くんでいいの? それとも、インディゴだっけ」
「……片桐でいい」
観念したように、彼は言った。「どっちも〈我々〉につけられた名前だが、組織を抜けるんならインディゴなんて名はいらねーよ」
――遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。近所の誰かが、物音や悲鳴を聞きつけて通報したのかもしれない。〈我々〉から逃げるのなら、警察が来る前に姿を消さねばならなかった。
急いで家から出る。外はすっかり日が沈んで、漆黒の闇。一瞬、この街の中でこんなに見えたかと思うほどの、見事な星空が目の前いっぱいに広がった。
〝綺麗……〟
こんなときだというのに、由香はその星空に心奪われた。不意に、涙がこみあげてきた。
「何やってんだ、由香。行くぞ」
立ちつくす由香に小声で言うと、インディゴの名を捨てた片桐聖司はさっさと歩き出す。右腕の痛みに辛そうな表情をしているが、足取りは速い。少しでも早く、その場を立ち去ろうとする。
「あ……待ってよ、片桐くん」
後を追って、由香も歩き出した。今までの、平穏だった日々に、別れを告げて。
近づいてくるサイレン。
夜空の下、追いついた由香が聖司の左手に手を伸ばすと、おずおずと聖司は握り返した。
End.
Butterfly 卯月 @auduki
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