藤野

 先生と会うのは、決まって銀座三丁目の喫茶店だった。細い階段を上がった先にある小さな店で、薄暗く、いつからあるのかわからない様子で、どこもかしこも古びていた。私と先生は、そこのカウンターの右端に座って、ぽつぽつとおしゃべりをする。

 この店で一番安いものはトーストで、300円だった。次がコーヒー、500円。私はいつもそれを頼んだし、先生もそうだった。

「この間、コンサートを聞きに行きました」

 私は先生の正確な年齢を知らないが、恐らく70歳を超えているだろう。それでも、先生は私にていねいな言葉を使う。

「サントリーホールですか?」

 咄嗟にそう尋ねたのは、先生がサントリーのウイスキーを愛飲しているのを知っていたからで、私としては冗談のつもりだった。けれど先生は、それがわかっているのかいないのか、シワのたくさんはいった細い首をかしげて、惜しい、と云った。

「カーネギーホールです」

「どこが惜しいんですか」

 第一、カーネギーホールというのは外国ではないのか。そんなところまでコンサートのために行って来たんだろうか。

「伸ばす音が入っているでしょう。それから、五文字です」

「ああ、あと、ホールって付くところも一緒ですね」

 これも冗談だったが、先生は然り、と頷いた。

 先生はいつも穏やかで、大体微笑んだような顔をしているから、どこまで本気なのかがわからない。カーネギーホールに行ったというのも、もしかしたら全部、ほら話かもしれなかった。

 でも、先生には、ちょっとそこまで、と帽子を片手に海の外へ行ってしまいそうなところも、確かにある。

「なんのコンサートですか」

「音楽だね」

 一瞬言葉につまって、それを誤魔化す様に頷いた。

「ええ、きっと、そうだと思いました」

 先生は、目尻の皺を深くして瞳を細め、カサカサの唇の両端をあげた。

 どうやら、これは冗談だ。

「あなたは、ここのところ何か良いことがありましたか」

 先生の細い枯れ木のような指先がコーヒーカップを持ち上げる。カップよりもよほど繊細に見えた。

「ええと、先生に会いました。あとは、そうだ、私もコンサートに行きました」

「ほう」

 先生が、じっと私を見ている。身体をこちらに向けて、ほとんど正面から見るように、まじまじと見つめながら、次の言葉を待っている。

「スプーンで演奏するコンサートです」

「スプーン」

 先生は、コーヒーの受皿に置かれたティースプーンを取り上げた。

「そうです。それを、ふたつ、こんな風に持って」

 先生からスプーンを受け取り、自分の皿からもスプーンを取り上げて、丸い部分を重ね合わせる。指先でおずおずとスプーンを操り、一度だけ、カン、とぶつけた。

「それのコンサートですか」

「プロがやると、もっとすごいんです」

 先生は、ふむ、と言って、私の手からスプーンを取り上げた。かさついた温かい肌が少しだけ触れた。

 スプーンを耳元に近づけて、カンと、そっと打ち鳴らす。私が立てたよりもずっと小さくて、柔らかな音だった。

「あなたは楽器はなさらないんですか」

「そうですね。トライアングルを少し」

「トライアングル」

「はい。小学生の時に」

 先生は愉快そうに口をすぼめて、またコーヒーを飲んだ。

「僕はね、オーボエを吹きましたよ」

「え」

「会社勤めをしていた時にね、同僚が持ってきたんです。それで、吹かせてもらった」

 オーボエを持ってくる同僚もよくわからないが、それを吹かせてもらう先生もよくわからない。大体、オーボエというのはそんなに簡単に吹けるものなのか。

「鳴ったんですか」

「鳴りませんよ。吹いただけです」

「あは、は」

 私は笑ったけれど先生は比較的真面目な顔をしていたから、途中で笑いをひっこめる。中途半端な顔で固まった私を見て、今度は先生が笑った。

「あなたは存外素直だ」

「昔から素直ですよ。かわいい子だったでしょう?」

「今もかわいい子ですよ」

 先生はにこにことしている。先生は私がセーラー服を着ていた頃から私のことを知っているけれど、私はもうあれから二倍以上も年を取った。先生はその頃からあまり変わらないけれど、最近は少し食が細くなった。

「先生、あと七十年くらい生きていてくださいね」

 コーヒーをすすりながらお願いした。

 先生はいつも、はい、はい、と二度返事をする。

 安請け合いをしやがって。

「でも、あなたは僕よりも先に死んではいけませんよ。それから、ひと月のうちに三日以上泣いてもいけません。月に一度は顔を見せて、その間にあった良いことを報告してください」

「はい」

「それから、」

 先生はにこにこと笑っている。

「月に一度、僕に会うのが面倒になったら、いつでも知らぬふりをしてください」

「なりません」

「なったら、の話です。それに、あなたに良い人ができたら、男女が二人で会うようなのはいけないでしょう」

 セーラー服を着ていた頃に、胸元のリボンの奥に刺さった棘がある。その棘が、私の良い人探しの邪魔をする。幾度も恋愛の真似ごとをしたが、ひと月のうちに三日以上泣くような恋はしていない。私が泣くのは、ただ刺さった棘が痛いからだ。

「先生は、男ですか」

「あなたは、女ですか?」

 先生はひどい人で、私はそれに答える言葉を持たない。先生の前にいる私は女ではなく、ただ一個の人として話しているけれど、セーラー服のリボンの奥には、あの頃から確かに女の乳房が芽吹いていた。

「ずるい」

 子どもの頃に帰ったように、うつむいて唇をかみしめると、先生はあやすように私の手を叩いた。

 じわりと鼻の奥が痛くなってくる。

 月に三日以上泣いてはいけないのに。

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藤野 @fujino

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