シェレディンガーの黒猫

 秋晴れの午後、試運転気味の暖房で温かい教室にいるなど、ナンセンスだ。

 こういう時こそ、秋風に吹かれてサボるべきなのだ。寝るべきか、それともサボるべきかと……愚問である、断固サボるべきである。

 とどのつまり、吉川廉太郎ヨシカワレンタロウはその程度の男の子なのだった。

 高校二年生、成績は中の上、真面目でもなく不良でもなく、学級でも目立たないように過ごして、昼休みは隠れるようにしてタブレットでAmazonアマゾンを冷やかす。ジャンプやマガジンよりはサンデー、そういう少年だった。


「ん? 鍵が開いてる……先客?」


 飲みかけの缶コーヒーを口にくわえながら、屋上へのドアへ鍵を突き刺した瞬間、普段と違う手応えに廉太郎は驚いた。つまり、文化祭のドタバタで特等席の一等地である屋上の鍵を、無断でコピーして合鍵を作ったのは彼だけではないということだ。

 おそるおそる鐵のドアを開けてみる。

 広がる青空は高く、白い雲は駆け足で流れてゆく。

 そして、目の前に机があって、その上に一人の女生徒が座っていた。

 とりあえず先生や不良の上級生でないと知り、廉太郎は胸を撫で下ろす。

 そして、件の女生徒が見知った顔なので、今度は撫で下ろした胸が鼓動で跳ね上がった。


「お? なーに、吉川君。サボり? いけないなあ」


 机の上に脚を組んで腰掛け、その少女は笑った。

 秋の空の、抜けるように高い高い蒼穹の下で、輝いていた。

 努めて平静を装い、廉太郎は「るせーよ」と反論して近づく。


「お前だってサボりだろ、吉井良華ヨシイリョウカ

「ちがいまーす、女の子はね、吉川君……月に一度の大流血ってのがあるの。女子痛じょしつうの日なの。わかる? 私、こうみえても重い方なんだから」

「って、三日前も言ってたよな? 部室棟で会った時」

「……まあ、そうだったかもしれないわね。ホント、よくサボり場がかぶるね、私たち」

「おう」

「はは、座りたまえ。同じよしの字のよしみじゃ」


 そう言って良華は、冗談めかした口ぶりで笑って、机の上で半分身をずらす。因みにこの机は、こっそり廉太郎が運び込んで愛用しているものだ。

 それにしても、最近あちこちで良華とよく出会う。

 そのことに関しては、なんの文句もないどころか大歓迎だ。


「お、いーもん持ってるね。おりゃっ!」

「っ! お、お前っ! ……あーあ、飲んじまいやがった」


 突然の間接キス。

 良華はズーズーと廉太郎がすすっていた缶コーヒーを取り上げるや、一気に飲み干してしまった。そして、わざとらしく「ぷあー!」とオヤジくさいことを言ってから、二人の間に空き缶を置く。

 肩が触れるか触れないかの距離は、秋風が良華の香りを運んでくるような気がした。

 ふんわりといい匂いがしたが、当の良華が全てを台無しにしてくれる。


「よっし、灰皿ゲットー! さーて、一服、一服」

「げっ! お、お前……す、吸うの?」

「まーね。頑張る乙女のストレス解消ってやつ?」

「バレたらまずいだろ」

「そのスリルがいいのですよ? 隠れて吸うから最高なんじゃん?」


 なんと、良華はスカートのポケットからタバコを取り出した。一本咥えてから、その箱を差し出してくる。

 なんだか、ここで優等生ぶって引き下がるのは……格好悪い。

 空気が読めてないとか、きょうぐ奴だとか思われたくない。

 精一杯「お、モクかい? しゃーねえな」と熟練者を演じてみる。

 因みに、初めて吸う。

 ちらりと良華を盗み見て、咥える方を確認してから唇に挟んだ。次の瞬間には「ほいよ」とライターを良華が差し出してくれる。彼女の綺麗な指が百円ライターの尻を叩けば、ジッ! と小さな音が鳴って火がついた。


「お、おう、悪ぃな……!?」

「へへ、びんじょー」


 ライターの火へと咥えたタバコを近付けた廉太郎の、その真ん前へと良華もタバコを近付けてくる。彼女は一回の点火で、二本同時に火をつけてしまおうと思ったのだろう。

 凄く、顔が近い。

 なんだか、喫煙の背徳感が五割増しで増幅される。

 一つの火を二人が各々タバコで、奪い合って分け合うように分かち合った。

 メロンソーダにストロー二本、なんてロマンチックな光景には程遠い。


「ふー、これこれ、学校で吸うタバコは格別だにゃー?」

「あ、ああ、全くだ、ぜ……ゲホッ! ゲホゲホ!」

「あー、こらこら。そんな一気に吸っちゃ駄目だってば。ふふ、おかしいの。やーい、喫煙童貞」

「どどど、童貞ちゃうわ!」


 初めてのタバコの味は、苦くて煙くて蒸せちゃって、でも最高の笑顔を見せてくれた。良華は無邪気に笑って紫煙をくゆらせる。吐き出す煙のドーナツが、天使の輪っかに見えた。

 そして彼女は、ふと空を見上げながらぽつりと呟く。


「ねえ、吉川君」

「ん? なんだよ」

「シェレディンガーの猫ってさ……?」

「ん、ちょっと待て、なんだっけそれ……待て、言うなよ! それ、知ってるぞ」


 たしか、SFや量子力学の話だったような気がする。詳しくはないが、なにかの漫画で読んだことがあった。確か、冴えない自動車部部員の大学生に、運命の三女神がやってきてドタバタラブコメをする物語だった気がする。

 因みにどうでもいいが、廉太郎は三女が好きだ。

 そして、どうでもいいことだったから、うろ覚えである。


「えっと、密閉された箱の中の猫を観測するには……って奴?」

「そ、だいたい合ってる」

「……黒猫なのか?」

「そうだろうな、って」

「なんでまた」

「好きなの、黒猫」


 ぷかー、ぷかー、と良華が煙の円環リングを空へと放つ。

 うまいもんだと思ったが、どういう舌使いをしたらああなるのか、廉太郎にはさっぱりわからない。それっぽく慣れた不利でちまちま煙を吸い込むので精一杯だ。

 だが、良華は呟くように話を続けた。


「シェレディンガーの猫ってさ、観測不能な事象だけど、その事象が解消や消滅を迎えることで観測可能になるって話」

「ええと、つまり?」

「箱を開けると猫が、黒猫が逃げるのね。逃げた黒猫を見送り『ああ、黒猫が入ってたのか』と気づく、でも時既に遅し」

「追いかけりゃいいじゃん。そいでまた箱に黒猫を詰めれば」

「わー、結構酷い奴なんだねえ、君は。ずっと閉じ込められてた黒猫だよ?」


 えっ、なにそれ酷い……当たり前のことを言ったつもりだったが、良華は「さいあくー」と非難がましい眼差しを注いでくる。

 なんだか、いたたまれない。

 つまり君は黒猫をどうしたいのよさ、と問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。

 それ以前に、小一時間でいいから、もっとこうして一緒にいたかった。

 すると、急に良華は曖昧な表情に頬を和らげた。

 ヘアバンドで留めた髪が、さらさらと風に舞う。


「私という箱の中に、この胸に……黒猫が入っている。と、思う」

「ほう? してその心は」

「……好きなの」

「だっ、誰が!? だ、だだだ、誰か、好きなのか?」

「わかんない。でも、黒猫は好き。だからほら、シェレディンガーの猫なの」


 ああ、と廉太郎はなんとなく察した。

 今、良華には好きな人がいる。……らしい。恋をしている。……ようだ。

 とどのつまり、自分でも気付かぬ感情が、気持ちと想いを溢れさせているのだ。

 それってつまり、恋である。

 経験者は語る。

 実践したことはないが、廉太郎は大ベテランだ。


「……詳しく話、聞こうか。そ、その、気になるし、よ!」

「うん。あのさ……ちょっと気になる奴、いるんだ。でも、好きかどうかはわかんない。ただ、それを確かめたら、私の中の黒猫が逃げてしまうんじゃないかな、って」

「つまり、こくったら振られるってこと?」

「わかんない、けど、消滅することによって確認できる事象、失恋したら私でも恋してたってわかるじゃん?」

「や、その理屈はおかしい。付き合うことになったらどうすんだよ! むしろ、そうなりたいって思うのが普通じゃないのか?」


 思わず向き直って、真っ直ぐ見て廉太郎は言ってやった。

 それで少し怯んだ良華は、頬を赤らめうつむいてしまう。

 彼女のタバコがしなびて白い灰になり、やがてボロリとコンクリートの床に落ちた。


「……なんて言ったら、いいと思う?」

「いや、お前がなんて言いたいかだよ」


 本当は、言わないで欲しい。気がする。言うなら「キモいんだよゴルァ! 誰がテメーなんかに惚れるか、ファッキンDTドーテー!」くらい言って欲しい。勿論、自分以外に。そんなことを廉太郎が考えていた、その時だった。

 ふいに顔をあげた良華が、真っ直ぐ見詰めてきた。

 大きな瞳が並ぶ双眸は、二つ並んで輝く星屑だ。


「この私の気持ちが恋かどうか、箱を開けて確かめてくれませんか? 黒い猫が飛び出てきたら……恋、してたんだと思います」


 一瞬の静寂。

 だが、本当に自分が告白されたようで、廉太郎は呼吸も鼓動も良華に支配されてしまう。

 自分でもわからないことを、他人にどうやって確かめたらいい?

 そもそも、それってどうなんだろう。

 廉太郎は自分では、恋のベテラン、プロフェッショナルだと思っている。そう気取って自負するようにしてる。そうでなければ、失恋続きの自分を自分でフォローできないから。

 そして、素直に良華が羨ましいと思う。

 恋する気持ちに無自覚でいられる少女が、無自覚なりになにかを自分の中に感じている。それを確認するためには、その気持ちそのものを終わらせる、消滅させる必要があるらしい。少なくとも、それくらいの覚悟で確認しなければいけないのだろうか。


「なあ、お前さ……吉井」

「うん」

「黒猫、好きか?」

「好き」

「ならさ……箱から出してやれよ。昔の偉い人は言いました、『この間、病気の子供を持つ母親が困ってるらしく、少し金を渡したんだが、それは嘘……病気の子供なんて最初からいなかったんだってさ。ああ、よかった……病気の子供はいないんだ』って話。知ってるだろ?」

「知ってる、『世の中、病気の大人ばっかだぜ……奴も競争社会が生み出した犠牲者の一人だったのかもしれん』ってやつでしょ?」

「ちゃうわ、アホ。……箱を開けて黒猫が入ってなかったら、空っぽだったらいいじゃねえか。ああ、閉じ込められてた黒猫はいなかったんだ、でいいと思うぜ」

「……うん」

「黒猫が入ってたら……逃げてもしょうがない、抱き付いてきてもしょうがない。とりあえずでも、箱からは出してやれよ」

「箱に入った黒猫という事象を、維持し続ける必要はないってことね、なるほど」


 我ながらいいことを言った、そんな気がした廉太郎だった。

 それで「よし!」と良華は缶コーヒーの空き缶にタバコを葬り、大きく空へと脚を逆立てる。ピンと伸びた黒タイツの両足を振りかぶって、そのまま勢いをつけて彼女は机から飛び降りた。

 そして、肩越しに振り返りながらニヘヘと笑う。


「吉川君さ、結構やるじゃん……ありがと」

「おう」

「……ちょっと、行ってくる。今、言ってくる」

「おう」

「因みにさ、吉川君は? もし、自分の中の黒猫を、本当に黒猫かどうか確かめるためなら……箱を開ける?」


 考えるまでもなかった。

 廉太郎は即答した。


「開けないよ。……自分では、開けられないんだ」

「あ! やっぱり? なんか吉川君、ヘタレっぽいもんねー!」

「……おう」

「ごめん、嘘。ありがとね。じゃ」


 そう言って、黒猫は行ってしまった。

 箱を開けて確かめるか、黒猫が逃げるリスクの中で、会えて火中の栗を拾うか。それとも、自分で「黒猫が入ってるんだ」と言い聞かせて、一生その箱を抱えているのか。

 そんなことを考える猶予も、自分で選ぶ瞬間も持てないまま……廉太郎の黒猫は自分で箱を開けて出ていってしまった。

 事象が消滅したことにより、確かにはっきりしたことがある。

 廉太郎は良華に恋をしていたのだった。

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