第4話 大英博物館
大英博物館には門外不出の稀覯書が数多く
所蔵されている。クトゥルー関連の本もネク
ロノミコンを筆頭に閲覧さえ許されていない
ものも沢山眠っているのだ。
橘良平はケンブリッヂ大学在学中に世話に
なったアルバート=ライン教授を訪ねた。彼
は最近では現場を引退し執筆作業に勤しんで
いるが、橘の在学中は生物学教授として高い
地位と名声を得ていた。大英博物館の名誉学
芸員でもあるライン教授の伝手を頼って、橘
は大英博物館の奥深くに入り込むつもりだっ
た。
前もって連絡をした時にはライン教授は不
在だったので、伝言だけを頼み、直接自宅へ
と訪ねた。留学中は週に一回は通った豪邸だ
った。
「お久しぶりです、ライン教授の教え子の橘
ですが。」
かなりの時間が経っているので、既にメイ
ドの顔は知らなかった。怪訝そうな顔でメイ
ドが言った。
「どちらの橘様でしょう。主からは今日、お
客様がおみえになるとは承っておりません。
主はお約束の無い方にはお会いいたしません
ので、お引取りください。」
「ちょっと待ってください。先日お電話した
ときにはご不在でしたので今日訪ねることは
伝言してあったのですが、聞いてもらってな
いですか。ケンブリッヂ大学で生物学を教え
ていただいていた橘良平です。教授に聞いて
いただければ直ぐに判ると思います。このお
宅にもよくお招きいただきましたから。」
メイドは怪訝そうな顔を更に曇らせたが、
ライン教授に確認するから、ちょっと待って
欲しい、と言い残し中へと入って行った。
暫くして戻ってきたメイドの表情は、先程
と全く変わっていなかった。
「主は橘などという生徒は知らないと申して
おります。早々にお引取りください。」
「そんな馬鹿な。教授に逢わせていただけれ
ば直ぐに判ります。取り次いでいただけませ
んか。」
「ですから、先程から申します通り主はお約
束の無い方とはお逢いになりません。どうぞ
お引き取りください。」
取り付くしまも無かった。仕方無しにロン
ドンの街の中心街へと戻る橘だった。ライン
教授宅に泊めてもらうつもりで、ホテルを取
っていなかったのだ。
「これでいいのだろう。」
ライン教授は絵に描いたような典型的な不
快の表情をあからさまに浮かべていた。相手
に対して不快感を表すために態とそんな顔を
しているのだ。
「結構です。今後とも含めてどのようなこと
であっても橘に助力をしていただかないよう
くれぐれもお願いします。さもないと。」
「判っておる。何度も言わずともよい。だが
君の教団の指導者とやらは一体何がやりたい
のだね。橘君とはどう関わっていると言うの
だ。」
「それについてはお応えするわけにはいきま
せん。教授はただ橘とは連絡を取れない、そ
のことだけ理解していただければ結構です。
今後彼の消息をお知りになられることはない
でしょう。」
「橘をどうするつもりだ。」
「彼にはちょっとやって欲しいことがあるだ
けです。心配なさらないでください。彼に危
害を加えるつもりはありません。」
「もしその言葉を違えるようなことがあれば
私にも考えがある。全力をもって君達の組織
を壊滅させてみせるぞ。」
「そう興奮なされないで下さい。お体に障り
ますよ。」
「クリストファー君と言ったか。私は君のよ
うな小賢しい若者はどうも気に食わないのだ。
その点、橘君は真面目で真摯な態度でいつも
学術に取り組んでいた。彼のような地道な存
在の積み重ねが天才のひらめきを超えること
もある、と知るときがいずれ来るだろう。」
「肝に銘じておきましょう。」
クリストファー=レイモスは橘良平の跡を
追ったのだった。
橘良平は途方に暮れていた。ホテルに戻っ
てはみたが、良い考えが浮かばない。とりあ
えず日本で待っている岡本浩太にロンドンに
ついた旨のメールを入れた。
その時、ドアホンのチァイムが鳴った。
「橘先生、少しお話があるのですが。」
ここに来ていることを知っているのは日本
で待っている岡本浩太と同時期にアメリカに
飛んだ綾野祐介だけの筈だった。イギリスで
はライン教授のメイドにここに居る事を教授
に伝えて欲しいと言付けただけだ。とすると
ライン教授の使いの者だろうか。だが、問い
かけは日本語だった。
「どちら様ですか。」
「私はクリストファー=レイモスと言う星の
智慧派の者です。あなたがこの国に来られた
理由を知り、お力になれるのでは、と訪ねて
参りました。」
どう言う事だろう。橘がイギリスを訪れた
理由を知るものはほんの数名の筈だ。星の智
慧派とはいったいなんだろう。とりあえず橘
は藁をも掴む気持ちでクリストファーを部屋
へと招きいれたのだった。
「私どもは地球を守ることが全てに優先する
と考えて行動することを主な理念としている
団体なのです。」
「あの、宗教の勧誘に来られたのですか。」
「いえいえとんでもない。あなたが今直面し
ておられる問題について、お話をするために
来たのです。」
「私が今直面している問題をご存知だと。」
橘はヴーアミタドレス山の洞窟に人質にさ
れている桂田利明を救い出すためツァトウグ
アとアブホースの封印を解く方法を探しに稀
覯書が数多く所蔵されている大英博物館の奥
深くに入館する許可を求めてライン教授を訪
ねたのだ。
「大英博物館には我が教団に所属する者も学
芸員として勤務しております。あなたのご希
望に添えるのではないでしょうか。」
「本当ですか。それなら是非お願いします。
ライン教授に会えなかったのでどうしようか
と思っていたのです。でもなぜ私に協力をし
ていただけるのですか。」
得体の知れない星の智慧派と名乗る青年の
申し出は橘にとって渡りに船ではあったが、
青年の目的がはっきりしない。なんのメリッ
トがあるのだろう。
「先程も言いましたが私どもは地球を守るこ
とが最大の使命だと思っております。旧支配
者達が地球を滅ぼす存在ならば、封印をされ
ているもの達を開放すべきではない、と考え
ているのです。けれど、人命には代えられな
い、とあなたや綾野さんは考えていらっしゃ
るのですね。」
「そうです。私には桂田君を救い出す使命が
あると思っています。ただそれによって地球
が破滅の危機に陥ることになるかも知れない。
その二つのジレンマについては、私も綾野先
輩も解決できていないのです。ただ黙って悪
戯に時を過ごすよりは、何らかの行動を起こ
せばそこに解決策が生まれるのでは、とここ
までやってきたのです。」
「判っています。全て判ったうえでご協力を
申し出ているのです。どうです、今から出か
けませんか。」
なぜ橘に協力してくれるのか、その答えは
聞けないままだったが、橘は意を決してクリ
ストファーの申し出を受けることにした。
午後1時をまわったところだったので、今
から大英博物館に向かっても充分時間はある
筈だ。少しでも早く何らかの情報を掴んで帰
国したかった橘はクリストファーと連れ立っ
て博物館へと向かうのだった。
「ええ、判っています。橘はここに釘付けに
しておきます。サイクラノーシュ・サーガは
別ルートで綾野の手に入るように手配してあ
りますから。」
「全ては順調のようだ。期待しているぞ。」
「ふぅ。」
電話を切ってクリストファー=レイモスは
ため息を吐いた。星の智慧派の指導者である
ナイ神父との会話は直接でなくてもかなり疲
労感を感じる。生気を吸い取られるかのよう
だ。
クリストファーはナイ神父の指令で大英博
物館にツァトゥグアの封印を解く方法を探し
に来た橘良平を一定期間拘束するために急遽
渡英してきたのだった。神父によると橘と綾
野祐介が日本で合流する時間を少しでも遅ら
せたいらしい。理由は聞かされていない。神
父が質問を許さないからだ。クリストファー
は多少苛立ちを感じ始めている自分に驚いて
いたが、今のところナイ神父の指示には絶対
的に従うつもりだった。
「クリストファーさん、あなたは何かを企ん
でいますね。」
駆け引きを知らない橘良平は思ったことを
そのまま口にした。クリストファーは協力す
ると言ってはいるが、稀覯書が所蔵されてい
る部屋に通してくれただけで橘が四苦八苦し
て本の内容を確認しているのをただ黙って見
ているだけだった。ラテン語にも堪能なクリ
ストファーの協力があればかなりのペースで
調査が進む筈だ。
「そんなつもりは無いのですが。」
「では何故手伝って下さらないのですか。」
「あなたに変な先入観を持って貰いたくない
からです。あなた自身の感覚で探し出すこと
が最短の時間での成功に繋がると思っている
からなのです。」
「それはどういう意味ですか。私に何らかの
力が在るとでも。」
橘はクリストファーが言い訳をしているか、
本来の目的を隠すためにはぐらかしていると
しか思えなかった。
「そうです。あなたは特別な力を授かったの
です。それと元々お持ちになっていたものと
の融合によってその力は相乗効果を得て飛躍
的に高められている筈です。」
「授かった力?元々持っていた力ですか?」
「ツァトゥグアと例え短い時間であったとし
ても融合していたのですから、ツァトゥグア
があなたの記憶やあなたが見た情報を得たよ
うにあなたがツァトゥグアの能力を一部でも
その身体に得ていることは、可能性として否
定できないでしょう。」
俄かには信じられない話だ。何かの力を得
たような自覚は無かった。橘は自分が人間と
は最早呼べない物になってしまったと宣言さ
れているようで多少腹が立った。
「それに私が元々持っていたものとはなんで
すか?」
クリストファーは橘の元々持っているかも
しれない力について説明を始めた。それはナ
イ神父からレクチャーを受けたものだった。
橘家というのは日本における四つルーツの
一つなのだそうだ。日本人は元を辿れば源平
橘藤といって源氏、平家、橘家、藤原家のい
ずれかに集約される。橘家は当然そのものず
ばり橘家だった。特に橘良平の家は旧家であ
り実際に日本における神話の時代に当る神武
天皇の時代にまでその家系を遡れるのだ。た
だし、橘を名乗ったのは奈良時代の少し前ぐ
らいからではあるが。
そして、その家計図の中に平安時代に数回、
日本人ではないものとの婚姻があったことが
記されている。このことについては橘良平も
先日故人となってしまった祖父橘軍平から聞
かされていた。『我が家系には謎がある』と
いうのが口癖だったのだ。歴史が専門の橘軍
平は自分の家系についてもかなり詳しく調べ
ていた。
橘良平は特に興味が無かったので真剣には
聞いていなかったが、かなり古い時代の家系
に不審な点があると祖父が言っていたのを思
い出した。
「これはあなたの祖父である橘軍平教授のお
宅から借りてきたものですが。」
そういってクリストファーは様々な文書を
テーブルの上に置いた。かなり古い物から最
近書かれたようなメモ帳のようなものまで在
った。
そのあとクリストファーが橘良平に語った
ことは、あくまで推論に過ぎないと前置きし
てからではあったが証拠となる書面が整って
いることもあり橘にとっては耐えがたく信じ
がたいことであった。
「それで橘は未だ英国に軟禁状態になってい
るのだな。」
「はい、精神的な打撃があまりにも大きかっ
たのか、呆然としたまま唯々諾々と従ってお
ります。あの状態では外部に連絡を取ろうと
はしないでしょう。念のため数人の見張りを
交代で付けておきました。」
「結構。」
クリストファー・レイモスはボストンにあ
る星の智慧派の拠点においてイギリスでの首
尾を指導者であるナイ神父に報告していた。
「次に君には再び日本に行ってもらいたい。
アンチクトゥルー協会という名の組織に接触
してあるデータを収集して欲しいのだ。」
「アンチクトゥルー協会ですか。」
「そうだ。一応汎人類的組織と名乗っている
ようだが、自分たちで思っているほどこの世
界では知られていない組織だ。ただ資料収集
やデータ収集には多少観るべきものがある。
今回もツァトゥグアと融合した人間の組織を
解析したデータを得ている筈なのだ。現在の
最新の医療技術によってどんな推論がなされ
ているのかを含めてそのあたりのデータを手
段は選ばない、奪ってくるのだ。」
相変わらずナイ神父は質問も意見も許さな
い。直ぐにクリストファーは日本に飛ぶのだ
った。
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